空前絶後のブラックアウトを、この国の社会契約のあり方を考える契機に
2018年09月10日
北海道胆振東部地震は、地域で観測史上の最大震度を記録し、数十名もの尊い命が奪われたというだけでなく、全域停電(ブラックアウト)という稀有(けう)な事態が生じた災害としても記憶されるだろう。
私が住む札幌市内が停電に陥ったのは地震から30分ほどが経ってからだったが、それから市内のほぼ全域で電力が回復するまで、実に40時間近くを要した。
幼少の頃、停電は少なからずあったように記憶しているし、海外の先進国でも停電が起こることは珍しくないから、停電自体はさほど驚くべきことではないかもしれない。とはいえ、今の日本で、数百万の人口を抱える広大な地域が、一晩以上も暗闇に覆われるという事態は、やはり特異なことと言っていいだろう(なお、台風の被害を受けた関西の一部も停電中と聞く)。
だからこそ、そこには社会の別のあり方がみえてくる。もっといえば、この国の「社会契約」のあり方が透けてみえるのだ。
「社会契約」といって難しければ、私たちが暮らす社会と、その社会を構成している一人ひとりとの関係のあり方だ。哲学者のルソー風に言えば、自分がどのようにして全体の不可分の一員となるのか、と言い換えてもいいかもしれない。
具体的な話をしよう。
多くの人が実感したように、電力のない生活は、文明社会以前の状態に戻ることを意味する。電力がなければ、高層マンションの上層階まで水を送れず、断水になる。井戸を使っている家屋にしても、ポンプが動かずに断水する。我が家のトイレは電気で水洗しているので、手動で流すことになった。車で移動しようにも、立体式駐車場は動かない。
災害が起きると、人は真っ先に情報を集めようとする。テレビは映らないから、時代遅れとなった電池式ラジオなんぞを持っていなければ、勢いスマホで情報収集に走る(今はスマホでラジオを聴くこともできる)。
ただ、スマホの充電が切れて、充電バッテリーも使い果たしてしまえば、それもアウト。文字どおりライフラインが寸断されるに等しい状態になる。札幌では充電機を用意した区役所に、市民が数時間待ちの長蛇の列をつくった。
海外はどうだろうか? アメリカやフランスなどの一部の都市では、ソーラーパネルなどを利用したUSB充電口がバス停などに装備されている。スマホがライフラインと化している現在、万人がいつでもどこでも利用可能なパブリック・ユーティリティとしてのスマホ充電があってもいい。
大学生の頃、アフリカの難民キャンプに行った際にも感じたが、公的に、あるいは他人が取り除くことのできる不幸は、大体の場合、細かでささやかなものだ。しかし些細(ささい)な不幸をひとつずつ失くしていくことは、日々の生活を普通に送る上で欠かせない条件となる。
もっと切実なニーズもある。人工透析の患者の避難や受け入れについては、緊急情報として流されたが、重篤な小児の在宅医療を専門にしている知り合いの医者は、避難所に患者を避難させる以前に、人工呼吸器の電源確保に苦労していた。避難所に問い合わせても、そもそもそのような電源確保が可能なのか、特別に融通してくれるのか、いつまで利用可能かどうか、明確な回答を得られなかったという。
存在としては一般的でなくとも、電気に依存しないと保てない命もある。災害で、あるいは戦争や紛争でもそうだが、もっとも危ない立場に追いやられるのは、その社会における脆弱(ぜいじゃく)な存在に他ならない。
災害時に、そうした最も脆弱な存在をいかに守れるか。その時ほど、社会が試される局面はないだろう。最も脆弱な存在を守り抜くということは、社会の全員を守ることを意味するからである。
原子力発電に近い自治体で、原発事故が起きた場合の避難計画を策定する際に問題になったのも、高齢の重病人や子どもたちをどのように避難させるかだった。災害対策を策定するにあたり、社会の多数ではなくて、最も脆弱な少数の人々に基準を合わせることが、全体を救済することにつながるという原理原則は、これからの新たな社会契約のあり方として模索されるべきではないか。
地震と停電の起きた6日の夜中、寝静まった札幌市をサイクリングした。街灯もなければ、信号も動いていない。
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