吉田徹(よしだ・とおる) 北海道大学教授
1975年生まれ。慶応義塾大学卒。東京大学大学院総合文化研究家博士修了。学術博士。専門は比較政治、ヨーロッパ政治。著書に『ミッテラン社会党の転換』(法政大学出版局)、『「野党」論』(ちくま新書)、『ポピュリズムを考える』(日本放送出版協会)、共編著に『ヨーロッパ統合とフランス』(法律文化社)、『政権交代と民主主義』(東京大学出版会)など。
※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです
空前絶後のブラックアウトを、この国の社会契約のあり方を考える契機に
具体的な話をしよう。
多くの人が実感したように、電力のない生活は、文明社会以前の状態に戻ることを意味する。電力がなければ、高層マンションの上層階まで水を送れず、断水になる。井戸を使っている家屋にしても、ポンプが動かずに断水する。我が家のトイレは電気で水洗しているので、手動で流すことになった。車で移動しようにも、立体式駐車場は動かない。
災害が起きると、人は真っ先に情報を集めようとする。テレビは映らないから、時代遅れとなった電池式ラジオなんぞを持っていなければ、勢いスマホで情報収集に走る(今はスマホでラジオを聴くこともできる)。
ただ、スマホの充電が切れて、充電バッテリーも使い果たしてしまえば、それもアウト。文字どおりライフラインが寸断されるに等しい状態になる。札幌では充電機を用意した区役所に、市民が数時間待ちの長蛇の列をつくった。
海外はどうだろうか? アメリカやフランスなどの一部の都市では、ソーラーパネルなどを利用したUSB充電口がバス停などに装備されている。スマホがライフラインと化している現在、万人がいつでもどこでも利用可能なパブリック・ユーティリティとしてのスマホ充電があってもいい。
大学生の頃、アフリカの難民キャンプに行った際にも感じたが、公的に、あるいは他人が取り除くことのできる不幸は、大体の場合、細かでささやかなものだ。しかし些細(ささい)な不幸をひとつずつ失くしていくことは、日々の生活を普通に送る上で欠かせない条件となる。