結党から60年余。数々のドラマを生んだ総裁選における参議院の影響力の大きさ
2018年09月14日
安倍晋三政権は国会を閉じる前に、参議院の定数を6増やす法案を通した。「朝日新聞」は2018年7月22日朝刊の社説で、「安倍1強政治のおごりがもたらした民主主義の危機は一層深まった」と評したが、明らかに安倍政権の参議院に対する配慮である。
一方で、自由民主党総裁選を前に衆議院の各派閥が雪崩を打って安倍首相支持を表明するなか、唯一といってよいほど独自の動きを見せているのが参院竹下派である(9月12日現在)。
安倍首相は、なぜ、世論の反発を買ってまで参院に配慮するのか。首相の配慮にもかかわらず、なぜ、参議院の派閥は独自の動きを見せるのか――。
これらの謎を解くには、自民党総裁選における参議院の位置づけを考える必要がある。そこで本稿では、自民党総裁選の歴史について、参議院に注目して概観したい。
自民党総裁選の歴史を紐解(ひもと)くと、実は総裁を投票で選出するという仕組みは当初、かなり異例な制度と受け止められた。たとえば、投票は「保守党の伝統ではない」という批判があった。昭和の戦前期に総裁選出での投票を辞さないとした立憲政友会が分裂した記憶が生々しく、投票を忌避する空気が強かったのである。
だが、GHQによる占領期以来、「公選」は戦後の「デモクラシー」を象徴する制度として評価されていた。そこで、1955年11月15日結党時には、「総裁及び副総裁は、党大会において公選する」ことが党則(第6条)に明記されたのである。
注目すべきは、総裁選の投票資格である。結党時に制定された総裁公選規程をみると、国会議員と都道府県支部連合会選出の大会代議員が投票権を持つと定められている(第3条)。
代議員とは現在の党員票(地方票とも呼ばれる)である。歴史的にみると、代議員は社会党を意識したもので、自民党が地方支部を重視していることを示すために導入された。
国会議員については異論があった。焦点は参議院議員の処遇だ。
国会で首班指名を行う際、衆参の結果が違えば、衆議院の結果が優越する。それを踏まえて、総裁選を衆参で別々に実施し、結果が異なった場合には衆参で協議し、それでも結論が出なければ、衆議院を優先すべきとの意見も出た。最終的には、参議院が志向する独立組織化を抑えるために、衆参対等で同一の投票を行うことで決着したが、いずれにせよ、こうして「国会議員」に総裁選の投票資格が与えられた。
自民党は1955年の結党時、総裁を決定できなかった。自由党と日本民主党という二つの政党が対等合併したため、自由党の緒方竹虎・総裁、日本民主党の鳩山一郎・総裁(当時、現職の総理大臣であった)のどちらを初代総裁にするか、決着がつかなかったからである。
結局、4人の総裁代行委員を置き、政務は鳩山一郎、党務は緒方竹虎が担うという役割分担でスタートした。今月初めに代表選を行った国民民主党が5月の発足時に採用していた共同代表制と同じである。
結党後に総裁選出が取りざたされると、やはり投票による選出には反対の声があがった。だが、いつまでも総裁をおかないわけにもいかない。結党時に決められなかったことからも分かる通り、複数の候補者が総裁を目指すとき、調整は不可能である。
結局、総裁選を実施することになった。1回目は1956年4月である。同年初めの1月末に緒方が死去したため、候補者は鳩山(首相)ただ一人。つまり信任投票となった。鳩山は信任され、初代総裁に就任した。
2回目の総裁選は1956年12月に行われた。候補者は、石井光次郎、石橋湛山、岸信介の3人である。
この総裁選は戦後の日本政治史上、最も有名なものといっても過言ではない。最初の投票で2位になった石橋と3位になった石井による2位、3位連合が成立し、決選投票では、わずか7票の差で石橋が岸に勝利した。
今年刊行された『井出一太郎回顧録』(吉田書店)は、選挙管理委員会副委員長だった井出の回想で、開票の経緯や石橋の大逆転の衝撃を余すところなく伝えている(153-8頁)。
さしたる混乱もなく複数の候補者で総裁選を行ったことは、世間に好意的に受け止められた。総裁を投票で選ぶことを「近代化」として評価する向き、党分裂が起こらなかったことへの評価などが見られた。
注目すべきなのは、石橋が勝利した要因として、代議員と参院が挙げられた点だ。
地方から上京してくる代議員を、各陣営は「缶詰」にして票固めを行ったが、それを石橋陣営の石田博英が切り崩したとされる。また、参議院は石橋を支持したが、これも石橋陣営の石田が大臣を3ポスト提供することを確約したのが決定打とされる。一方、敗北した岸陣営は「代議員と参院は、衆院についてくる」と考えていた。これが、参院が総裁選を左右した最初の実績である(以上、小宮京『自由民主党の誕生』木鐸社、2010年)。
その後も、総裁選での勝利を目指して、お金が渡されたり、ポストが約束されたりと、様々な手練手管が繰り広げられた。そのため、回を重ねるごとに、メディアや世論の総裁選への批判が強まった。
とはいえ、総裁を選出するのに、公選にかわる“妥当な方法”は出てこない。総裁選はごく当たり前のように行われるようになった。そうしたなか、参議院は総裁選に対する影響力を着実につけていく。
1962年から3期9年間議長を務めるなど、参院で大きな権力を振るったのが、自民党の重宗雄三である。彼が権勢を維持した理由として、自民党総裁選での影響力が指摘されている。
参議院を支配したいわゆる「重宗王国」の崩壊を導き、71年に議長となった河野謙三は言う。
「重宗の勢力はどこからきたのか、それは自民党総裁選挙とのかかわり、その一点ですよ。総裁選での参院議員の票のとりまとめ」。さらに河野は、「真剣に提案したことがあるんだ。参院議員は総裁選に参画すべからずとね。だって意味ねえんだもの。総裁選は即総理選挙なんだが、国会では参院での総理選挙は参考投票にすぎないんだから」とも振り返った(河野謙三『議長一代』朝日新聞社、1978年、18頁)。
衆参を比較すると、総理指名など衆院が優越する部分はあるものの、参議院は自民党総裁選に参加することで、それ以上の権力を握ることが可能になると河野は考えていたのである。ちなみに、河野は参議院から大臣・政務次官を出すべきではないとも主張した。
だが、河野の希望とは逆に、参院は自民党総裁選において、むしろその影響力を拡大していく。
皮肉なことに、河野が「重宗王国」を崩壊させたことは、佐藤栄作の後継者となった田中角栄総裁の実現に影響したと解釈されている。冨森叡児は、田中の対抗馬だった「福田にとって致命傷」とまで評した(『戦後保守党史』社会思想社、1994年、224頁)。河野議長の誕生以降、参院は各派閥との結びつきを強めていき、派閥の勢力を決めるうえで大きな意味を持った(竹中治堅『参議院とは何か』中公叢書、2010年、157、315頁)。
平成以降も、自民党の最大派閥だった竹下派の分裂、あるいは1993年の細川護熙・非自民連立政権の成立に伴う下野といった自民党の苦境において、一定の議員数を保持し続けたことも、参議院の影響力拡大につながった。21世紀に入り、小泉純一郎政権以降も見られる参議院の独自性などは、周知の通りである。
自民党総裁選の歴史を眺めてみると、総裁選の仕組み上、参議院の動向が大きな意味を持ったことが分かる。
2018年の自民党総裁選においても、参議院の動向が安倍首相の今後にどのような影響を与えるのかが、一つの注目点である。
さらに、安倍政権が今後の課題として取り上げる憲法改正を見据え、参議院の役割の再定義や選挙制度の検討が必要との見解もある(中北浩爾「参院、ぶっ壊される前に」『朝日新聞』2018年7月26日朝刊)。こうした視点からも、参院の動向を注視すべきであろう。
(文中敬称略)
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