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戦争経済大国(上)

平和希求の歩みが「新・大日本帝国の実現に至る助走期間」という顛末にしないために

斎藤貴男 ジャーナリスト

桜島を背景に自民党総裁選への立候補を表明する安倍晋三総裁=2018年8月26日、鹿児島県垂水市

 「子どもたちの世代、孫たちの世代に、美しい伝統あるふるさとを、そして誇りある日本を引き渡していくために、あと3年、自由民主党総裁として、内閣総理大臣として、日本のかじ取りを担う決意であります。その決意のもと、来月の総裁選に出馬いたします」

 安倍晋三首相が正式に党総裁選(9月7日告示、20日投開票)への出馬を表明したのは、先月26日、日曜日のことである。強権的な政治手法やモリ・カケ問題に代表される道義心の欠如に批判は受けても、3選は確実とされていた状況の下では、いかにも遅い。2週間以上も前に「正直」「公正」の旗を掲げて立候補した石破茂元幹事長との論戦を避けるためではないかと囁かれもしたが、これ以上は触れない。

 本稿が強調しなければならないのは、出馬表明がなされた場所である。鹿児島県垂水(たるみず)市の漁港、というより桜島が最も勇壮に映えるスポットで、安倍氏はその桜島を背に「誇りある日本」云々を語り、NHKの生中継に納まった。桜島と言えば西郷隆盛。これもNHKで好評放映中の大河ドラマは、薩摩藩の元下級武士で、明治維新の元勲になった彼を主人公とする『西郷(せご)どん』だ。

 折しも今年は明治改元から150年目に当たっている。第二次政権を発足させて以来、「明治の精神に学べ」と繰り返してきた安倍政権は大々的なキャンペーンに余念がない。来たる10月23日には東京・永田町の憲政記念館で政府主催の記念式典を開催するとの閣議決定もなされたばかり。

 安倍氏の地元は山口県だ。薩摩とともに維新の立役者を輩出した長州藩と重なる。安倍氏は出馬表明に先立つ鹿児島県鹿屋市での講演でも、「しっかり薩摩藩、長州藩で力を合わせて新たな時代を切り開いていきたい」と述べていた。ちなみに、この夜の『西郷どん』は、まさにその「薩長同盟」をサブタイトルにしていたのが単なる偶然か、周到な準備の賜だったのかは不明である。

大日本帝国憲法の夢よもう一度

 では、なぜ桜島なのか。“明治150年”と己自身を直結させるかのような演出には、どのような意味が込められているのだろうか。

 私見だが、それは安倍氏が最高権力の座に留まり続けて推し進めたい国家ビジョンをストレートに、だがある程度の予備知識がないと、ロマンチックにも受け取られるように計算された表現だと思われる。すなわち明治日本の再現、もっと言えば当時の富国強兵・殖産興業、さらには大日本帝国の“夢”よもう一度――。彼が憲法改正を叫び続ける最大の動機である。

憲法改正を求める集会で、安倍晋三首相のビデオメッセージが流された=2017年5月3日、東京都千代田区平河町

 もちろん、かつての大日本帝国をそのまま復活させることなど不可能だ。現在の日本にはアメリカという超権力が存在する。真の独立が図られない限り、あらゆる国家ビジョンはアメリカの意向に沿ったものにしかなり得ない。大日本帝国のような国家を志向すればするほど、それでも彼らに警戒されないためには、隷従をよりいっそう深めていく必要に迫られる。

 第二次安倍政権下でしばしば指摘される、「このままではアメリカの戦争にいつでもどこでも駆り出される国にされてしまう」という危惧は、多くの識者が、こうした因果関係を議論の前提としているからだ。そして、安倍氏がわかりやすい形で示しているような国家ビジョンは、必ずしも彼の個人的な野心だけから導かれたものではない。ポスト安倍の時代になっても、経済成長を絶対とする価値観は、アメリカの属国としての新・大日本帝国を不可避にしていくのではないか。

 来年2019年4月30日には現天皇が退位する。日本だけの特殊な時代区分に過剰な意味づけをしたくはないけれど、このままでは戦後の昭和と平成を通して形成された国家社会のあり方が、最悪のステージに進むことにもなってしまう。平和を希求していたつもりの歩みが、実は新・大日本帝国の実現に至る助走期間でしかなかった、などという顛末にしないためには、戦後史の再検討が急務である。

アメリカの戦争で大儲け

 戦後日本とはどのような国であったのか。多様な捉え方が可能なのは当然だが、ここでは“アメリカの戦争で大儲けした国”としての側面について述べようと思う。経済大国としての現在は、たとえばNHKの『プロジェクトX』が描いたような、日本人の勤勉さや努力だけで形成されたのではなかった。

朝鮮戦争の特需景気。照明弾の製造で大忙しの神奈川県内の工場

 焼け跡からの復興は、日本がまだ占領下にあった1950(昭和25)年6月に勃発した朝鮮戦争による特需景気から始まった。当時の財界人たちが、口々に、こんな発言を残したほどである。

 石川一郎・経団連初代会長(日産化学社長)「天祐」

 永野重雄・富士製鉄社長(後に新日本製鐵会長、日本商工会議所会頭)「干天の慈雨」

 一万田尚登・日本銀行総裁「わが財界は救われたのである。朝鮮動乱は日本経済にとっては全くの神風であった」

 後に「回生薬」だったと位置づけたのは、経済企画庁だ。実際、鉄鋼や機械、繊維などをはじめ、日本のあらゆる産業は特需の恩恵に与り、その後の“発展”に繋げていった。

 試みに1967年に発行された『トヨタ自動車30年史』の一節を挙げる。米軍在日兵站本部や、朝鮮戦争勃発を契機に占領軍の要請で創設されたばかりの警察予備隊(自衛隊の前身)から、いつ、どれだけのトラックの注文があった、などとして、当時の活況を生々しく綴っていた。こんな具合だ。

 特需の受注によりわが社の生産は急上昇した。昭和25年5月には、ストの影響で、月産わずか304台に落ち込んでいたのが、8月には、スト以前の1000台ペースをはやくも回復し、翌26年3月には月産1542台と戦後最高の生産台数を記録した。
 こうした増産による操業度の上昇、労働生産性の向上に加えて、販売価格の上昇、さらに特需金融が優遇されて運転資金調達が容易になったことも手伝い、月次損益は急速に好転して、昭和25年6月度は1億2959万1000円の損失に対し、8月度は2145万9000円、10月度は4254万7000円、11月度は4331万7000円の黒字に転化した。

 大方の大企業の社史が、程度の差はあれ、トヨタのそれと同様に朝鮮戦争特需を“神風”の視点でのみ取り上げている。戦争そのものの是非を論じるのは社史の役割ではないにせよ、南北合計で約350万人とも言われる朝鮮・韓国人の屍(過半数は民間人)と、膨大な離散家族の上にもたらされた経済的繁栄に、後ろめたさのような意識が微塵も感じられないのには違和感を覚えざるを得ない。

日本の「逆コース」は加速

戦車や米兵部隊を満載して韓国・仁川の上陸作戦に向かう輸送艦隊

 背景には、日本企業が加担した米軍や韓国軍その他の軍隊が、あくまでも国連軍の看板を掲げていた事実があった。戦場が少し前までの植民地で、犠牲者たちが近代化以降の日本人にとっては差別の対象だった人々であることも無関係ではないかもしれないが、次のような史実は、当時の日本の立ち位置と、その状況に甘んじ続けてきたがゆえに招かれた、現代における新・大日本帝国の志向への必然とを浮かび上がらせてはいないか。

 朝鮮戦争には日本も参戦していた。

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