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喜界島に生まれて(5)ウガンダの星空を見上げて

ウガンダと喜界島には共通点が多かった。風景も踊りも人々の気質も。なぜだ?

住岡尚紀 明治学院大学生

ウガンダにある国連事務所からの帰り道で呼び止めてくれた近所の人々

(前回までのあらすじ)鹿児島の南380kmに浮かぶ喜界島で育った少年は世界へ羽ばたくことを夢見て上京する。無味乾燥な都会生活で初心を忘れそうになりつつも、ウガンダの国連事務所で働く好機をつかみ取る。ウガンダでは英語に苦しみつつも、現地の暮らしに溶け込んでいく。そこから見えてきたのは――

「島時間」と「アフリカンタイム」

 日差しは強烈だが、日陰では心地良いそよ風に包まれる。

 降り注ぐ陽光とたっぷりの雨で育つバナナやマンゴー、隆々とそびえ立つガジュマル、そして青空の下で緑の葉を広げる一面のサトウキビ畑。

 ウガンダの光景は、喜界島そのものだった。ほかにも、島で見かける植物にたくさん出会うことができた。

 人々の暮らしぶりも島の人たちとどこか似ている。とくに時間感覚だ。

 喜界島でそれは「島時間」と呼ばれているが(沖縄や奄美の他の島では「ウチナータイム」と言うようだ)、ウガンダでは「アフリカンタイム」と呼ばれている。

 高校生まで暮らしていた喜界島では、友達と待ち合わせた時間になってようやく「そろそろ行くか」と家を出ていた。大学進学で上京した後は、友達と会うにもバイトに行くにも電車の時間を綿密に調べ、遅延する可能性も考慮して早めに出るようになった。僕にはこれがとてもストレスだった。

 「アフリカンタイム」は国際事務所も例外ではない。大雨が降ると「止むまで自宅待機」という連絡が入った。上司に「雨でも行けます」と言うと、「スミ! 雨の日は休むんだよ。This is African timeさ、ハハ」と笑われた。

通勤タクシーでの「悲運」

 ウガンダの写真を喜界島に人に見せると「昔の島とおんなじだ」と言われる。

 街は「カオス」だ。人や車、牛や鶏が縦横無尽に渡り歩く。信号もなければ、横断歩道もない。ましてや舗装された道路はほんの一部。

 ある朝、僕は大事な会議に備えてネクタイにジャケットでいつもより15分早く家を出た。そして、いつ来るか知れぬ相乗りタクシー(日本で言うバス、TOYOTAのハイエース)を待っていた。

 待つこと10分。クラクションを鳴らし、車が近づいてくる。ドアから男が身を乗り出し、何やら合図しながら叫んでいる。

 男「fdibl?:”&カンパラFa¥:」

 現地語はほとんど解せないが、首都カンパラへ向かうということはわかる。僕は行き先を告げる。

 男「1500」(25円くらいか)

 僕「OK」

 交渉成立だ。この男はconductorと呼ばれ、運転手の代わりにお金と客を集めるのが仕事だ。

 15人乗りなのに、中にはすでに16人。すし詰めだ。それでも男は乗れと言う。補助席にお尻を滑らせる。外から押し込むようにドアが閉まる(暑い…汗臭い…)。

 動き出す。男は車につかまっている。ゴミ収集者のおじさんのようだ。よく揺れる。そうこうしている間に停車する。僕は1番扉側にいるので誰かが降りるときは一旦降りる。2人降りた。一つ後ろの補助席に移るが、依然すし詰めだ。

 再び停車した。僕は席を立ち段差に足をかけた。その瞬間、急発進した。

 バランスを崩し慌てる僕。急停止する車。ん? 太ももの辺りに優しく冷たい風が…。手を伸ばすと、ズボンに穴が開いている。

 僕はオフィスへ着くまで多くの人に後ろ指を指された。その経緯を上司に伝えると、彼は笑顔で言った。「スミ! This is Africaさ、ハハ」

お互いの心がバリアフリー

カンパラ市内の市場で空手の話題から現地の人と仲良くなった。右が筆者
 バスにも時刻表はなく、ルート内ならどこからでも乗り降り自由。これも喜界島とおんなじだ。

 喜界島で暮らす僕のおばあちゃんはしばしば自宅までバスで送り届けてもらう。ウガンダでも、マタツと呼ばれる日本製の車に相乗りで乗り込む。

 ウガンダに慣れてくると、僕は家族のように受け入れてもらった。帰り道には「HEY! Muzungu(外国人の呼び方)」と声を掛けられ、お酒を渡される。めちゃくちゃ強いウォッカだ。クイッと飲みきると、大歓迎される。それからそこを通るたびに呑んで行けよと言われ、何時間も滞在してしまうことも。時には家に招待してもらい、そのまま泊まることもあった。

 雨が降ると、近所の人たちが僕の洗濯物を取り入れてくれる。夜になると、突然ご飯を分けてくれることもある。

 東京のアパートでは、顔も名もよく知らない上下左右の住人に気を使いながら暮らしていた。ウガンダでは、お互いの心がバリアフリーだ。女の子と手を繫いで下校しようものならその夜に親の耳に入る喜界島とどこか似ている。高校生までは窮屈に感じたその暮らしが、東京生活を経た今ではなぜか懐かしい。

ぼったくり?

 灼熱の昼下がり、サングラスを売り歩くお兄さんが通り掛かった。僕はそのサングラスが欲しくて彼を呼び止め、「いくら」と尋ねた。

 彼は6万シリング(約2千円)と言う。値切り交渉を重ね、3万シリングで最終決着した。僕は5万シリング紙幣しか持ち合わせておらず、それを彼に渡した。

「お釣りを持っていなくて。両替してくるからここで待ってて」

 彼はそう言い残し、走り去った。

「絶対に戻ってくるはずがない。やられた」

 半ば諦めて彼の背中を眺めていると、おばさんが「暑いでしょ。彼が戻って来るまでこっちにいなさい」と話しかけて来た。促されるままに誘導される。その間に彼の行方を完全に見失った。

 あれ? もしかしたらこのおばさんもグルなんじゃないか?

 嫌な予感。これは完全に盗まれたと思った。「またThis is Africaか」と心の中でつぶやく。

 ところが、である。彼はほどなく戻ってきた。その手にはしっかりと2万シリングが握り締められている。

 猛暑のなかでお釣りを探しに走り回っていたのか。額には汗がにじんでいる。彼は「サンキュー」と言ってお釣りを渡し、立ち去った。

 お金を持ったまま逃げようと思えば十分に可能だった。僕は無意識のうちに彼を疑っていた。

 そういえば、喜界島で暮らしていた時は、あまり人を疑わなかった。いつからだろう、疑ってかかるようになったのは。

 僕の頭の中を占めていたのは「ぼったくられないぞ」という警戒感だけではなかった。「少しでも値切ろう」という思いもあったのだ。

 彼らが提示する価格は、日本円に置き直すと妥当に思えるものだった。彼らは僕らがお金を持っていることを知っているから吹っかけてくる。彼らから「ぼったくっている」のはむしろ僕たちではないのか。

 僕は東京では募金活動に何度も協力してきた。その一方で、ウガンダでは物を買うのに少しでも値切ろうとしたのであった。貧富の格差をなくすには「心の目線をそろえる」ことから始めることが大切なのだと痛感した。

まさかダンスまで…

 ウガンダも喜界島も、子どもを大切にしている。子どもが生まれた、学校を卒業した、結婚したとなれば、みんなで祝う。

 20歳の僕のことも快く歓迎してくれた。毎回行われるのがダンスである。それがまた島の踊りと酷似していた。

 みんなで円になり、太鼓を鳴らしながら、思いのまま体を動かす。「あ、島っぽい」と考えながら眺めていると、円の中心に引きずりこまれる。島人魂に火が付き、全力の「六調」(沖縄ではカチャーシーといい、音楽に合わせて自由に踊る)と指笛で対抗する。

 彼らの独特のビートと動きはすぐに真似が出来た。幼い頃からエイサーを続けてきたし、島のお祭りにも積極的に参加してきた。ウガンダのリズム感は僕の体に染みこむ島のリズム感を呼び覚ましたのかもしれなかった。

 そのとき、僕の指笛と同じような音が聞こえてきた。ふと振り向くと、青年が指笛を吹いている。僕は鳥肌が立った。

 こんなに似ているのだ、喜界島とウガンダは。相互交流を始められないものか。

 喜界島は東京からみたら超ローカルである。ウガンダは世界から見たら超ローカルだ。喜界島に生まれた僕がウガンダの人々とこうして時間や空間を共有しているのは、グローバル時代のおかげである。そして、10万㎞の距離を越えて、意外なほどに両者の共通点は多いのだ。摩訶不思議である。

 ローカルとローカルをつなぐグローバル。「グローカル」な時代。

 静かな夜。子どものころ見ていた島の夜空と同じく、燦々と輝く星たちを見上げながら、僕はそんなことをとりとめもなく考えるのであった。<to be continued>

*「喜界島に生まれて(6)まさか…ウガンダで熱病に」につづきます

喜界島