-軍事権力の暴圧、絶えざる民主化運動、朴正熙の神話と全斗煥の安居-
2018年09月23日
*この記事は筆者に日本語と韓国語の2カ国語で執筆していただきました。韓国語版(한국어판)でもご覧ください。
2017年に製作された韓国映画「タクシー運転手」(監督チャンフン、主演ソンガンホ)は、韓国国内だけで延べ観客動員数1200万人以上を記録し、空前の大ヒット作品になった。韓国現代史の暗部のひとつである「光州民主化運動」をテーマにした映画が、現代の韓国で大きな反響を呼び起こしたのはなぜだろう。
映画としての演出力、役者の卓越した演技がその要因であることはいうまでもないが、同時に、この映画のテーマが韓国人にはいまだ冷めやらぬ悔恨と乗り越えねばならない痛みの記憶として残っているからであろう。
映画は、ごく普通のソウルのタクシードライバーが、韓国南部の光州で何か異変が起きているという情報を得て現地入りを目指すドイツ人記者をタクシーに乗せ、軍に封鎖されている光州に向けて発つところから始まる。
軍事クーデター勢力が韓国メディアを完全に制圧し、権力奪取のために軍の特殊部隊を動員して民主主義を叫ぶ市民たちを制圧・殺傷したというこの恐るべし事件は、韓国の他の地域にはまだこの時点で報道されておらず、国民の大半が何も知らされていない状況下で、ドイツ人記者を乗せたタクシーは光州に入る、という設定だ。
1980年5月、韓国全羅道の中心都市・光州では、民主化を要求する学生とこれに同調する市民たちのデモが続いていた。18年間の朴正熙(パクチョンヒ)軍事独裁政権が内部の亀裂のため崩壊し、絶好の民主化の機会が訪れたにもかかわらず、軍部の別勢力すなわち全斗煥(チョンドファン)を中心とする「新軍部」が政権を奪取して政治権力を私物化していくことに反対する運動であった。
もちろん学生、市民の反対デモは全国的であったが、もっとも激しい運動は光州で展開された。これに対して軍事政権は、国民のためにあるはずの軍隊を、自国民を殺害するというおぞましい目的のために動員したのである。
光州事件は、公的には死者数193人、負傷者数852人と発表されている。より多くの犠牲者を証言する記録もあるが、結局この民主化のための蜂起は失敗し、全斗煥の暴圧的な軍事政権は1987年6月10日の「6・10民主抗争」まで維持される。またそれ以降もしばしば韓国の民主主義は脅威にさらされ、危機を経験するところとなる。
これら歴史的な出来事を記憶し、思い起こすための乱数表のような数字を知らない韓国人はほとんどいない。日本ではせいぜい8.15と近年の東日本大震災の3.11ぐらいが一般に呼称されている歴史的な日付ではないか。
韓国近現代史の記念日の数字には、急激な政治的変革や浮沈の歴史が多く含まれている。国内の政治史だけをみても、その連続といってよい。
大韓民国の初代権力者である李承晩が永久政権、終身大統領を目指したのに対抗し、1960年4月19日学生たちを中心とする民主化運動勢力が大規模なデモを起こして「4.19革命」になった。この革命で多数の人々が命を失い、李承晩は大統領の地位から下野した。
しかし4.19の推進主体が中心となった民主政権が安定する間もないうちに、1961年5月16日には一部の軍部勢力がクーデターによって政権を掌握した。以降18年間、朴正熙による独裁の鉄血政治は持続され、その末期に彼はいわゆる「維新憲法」の強行改憲で終身大統領を目指すが、政権内部の自滅的な分裂のため、彼は1979年10月26日、最側近の部下に殺害される。この希代の独裁者を失ってしばらくのあいだ、ようやく韓国政治には民主化のプロセスに入る機会を得たという期待が膨らんだようであった。
しかしまたしても別の一部の政治軍人たちが権力を目指す。すなわち全斗煥、盧泰愚(ノテウ)を中心にする新軍部勢力である。彼らは第1次として1979年12月12日に軍内部の主導権を不当な方法で奪った後、政治、社会全体における集権プログラムに取りかかり、そのプロセスのなかで、民主勢力を弾圧した。1980年の「5.18光州民主化運動」はこのような状況下で発生した事件である。
朴正熙と全斗煥による軍事政権が続いた時期に、学生、宗教人、学者、社会活動家、文化人を中心とする民主化運動勢力は、筆舌に尽くしがたい苦痛と受難を味わった。
特に1987年のソウル大生の朴鍾哲(バクジョンチョル)の拷問致死事件、延世大学生の李韓烈(イハンリョル)の催涙弾直撃死亡事件は、韓国の民主化運動を一部の学生やグループの運動から全市民の運動へと拡大させるきっかけとなり、延べ人数にして数百、数千万の群衆が街頭に出て、デモに参加し、政治の民主化を要求するようになった。韓国の軍事政権もこれには屈服せざるをえなかったのである。
この出来事は、韓国に軍事政権の樹立はもはや不可能であることを世に示す明確な画期点になったといってよい。付言すればこのとき、反朴正熙の民主化運動の時よりもさらに大きな支援が、日本のクリスチャンを中心として寄せられ、隣人としての日本の良心が示されたことも記憶されるべきであろう。
このように記念日の数字の大部分には血の痕跡が濃い。そのひとつ、ひとつの記憶された数字のなかに、多数の民衆の奪われた「命」と「ハン」がこめられている。それは連続する歴史の相において、前代の暗い歴史の汚名を背負って清算されるべき局面を待つこととなるはずであった。
ところが、韓国の近現代史には不可思議な側面がある。
たとえば韓国近代史におけるもっとも屈辱的な歴史である日本の植民地支配についても、暗黒の36年のトンネルを潜り抜けたそのときにおいてなお歴史は清算されることのないまま、8.15以降の韓国現代史のなかで、被植民地時代を主導したいわゆる「親日派」勢力が既得権を維持しつづけたという事実がある。政治、経済、文化、さらには宗教権力にいたるまでが、その特権を持続的に行使したのである。イデオロギーの南北分断の状況下で、自分たちこそが「反共」の尖兵であるというのが、彼らが好んで使うレトリックであった。
李承晩政権の主流、朴正熙軍事政権の主流は、日本の植民地時代の親日既得権益護持勢力そのものであった。そして朴正熙政権は、厳しい軍事独裁への民衆の不満を経済開発で抑え込もうとした。
たしかに追い風に恵まれて、この時期の韓国経済が飛躍的な成長を達成したことは事実であるが、そこに富の分配の極端な偏りと、それにともなう多数の犠牲があったことはいうまでもない。それにもかかわらず、現在でも一部の韓国人は、独裁者朴正熙に対して温情的であり、彼を経済成長の立役者としてほめそやす傾向すらある。
特に全斗煥は近年の回顧録のなかで、「光州事件」は自身とは全く関係のない、責任外のことであると主張しており、これに呼応して一部保守右翼たちも、この事件は北朝鮮から秘密裏に南下した共産主義不純分子によって引き起こされたものであると主張している。あきれかえるほかない言いぐさであるが、これが韓国の現実でもある。
このような韓国政治史の不可思議は、結局のところ南北の緊張、対立という特異な環境が作ったものかも知れない。
民主化勢力はいつでも「従北」と「左赤」という批判を浴びてきたのであり、そのような先入観に対処しなければならなかったために、彼らは逆に歴史の清算という作業において不徹底で、あいまいな態度をみせてしまった。
そうであれば、われわれの記憶に新しい「キャンドル革命」、この韓国政治史上の快挙もまた、南北の和解と統一が成し遂げられるまではいまだ未完成であり、進行中であると知るべきだろう。
映画「タクシードライバー」は、韓国現代史の一つの桎梏をリアルに描いた叙事であろう。
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