斎藤貴男(さいとう・たかお) ジャーナリスト
1958年、東京生まれ。新聞・雑誌記者をへてフリージャーナリスト。著書に『戦争経済大国』(河出書房新社)のほか、『日本が壊れていく――幼稚な政治、ウソまみれの国』(ちくま新書)、『「明治礼賛」の正体』(岩波ブックレット)、『「東京電力」研究──排除の系譜』(角川文庫、第3回「いける本大賞」受賞)、『戦争のできる国へ──安倍政権の正体』(朝日新書)など多数。
※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです
グローバルビジネスの価値観に従わない存在は日本の「敵」という論理
「戦争経済大国(上)」では、朝鮮戦争、ベトナム戦争と“アメリカの戦争で大儲けした国”としての戦後日本の歩みを紹介し、昨今の安倍政権の動きに触れた上で、戦後日本の〈平和を希求していたつもりの歩み〉が〈実は新・大日本帝国の実現に至る助走期間でしかなかった〉ことになってしまいかねない危険を指摘した。
第1次安倍晋三政権によって設置され、その後の歴代政権下では開催されずにいた首相の私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)が、第2次安倍政権になって活動を再開した直後、2013年4月のことである。企業経営者が個人の資格で参加する財界団体「経済同友会」が、「『実行可能』な安全保障の再構築」と題する提言を公表した。その内容は、安保法制懇が後にまとめた集団的自衛権の行使容認を求める報告書、さらに翌々15年9月に可決・成立した安全保障法制(公式には平和安全法制。戦争法制とも呼ばれる)をめぐる国会審議ではなぜか言及されず、ほとんど報道もされなかったが、憲法改正に向かう奔流の根幹部分を雄弁に物語っているので、紹介したい。
それによれば、〈国民経済の基盤を世界各国との通商に求める日本にとって、自らの繁栄の基盤である地域の平和と安定を、各国との協調と平和的努力を通じて実現することが最も重要である〉。ただし、この場合に問題になるのは〈憲法や「専守防衛」など独自の安全保障概念による制約〉で、〈現実に即した安全保障論議が行われてこなかったこと〉だから、〈現在のわが国にとって「自衛」とは何を意味するのか〉を〈明確に定義すべきである〉という。そこで報告書は、守られなければならない〈国益〉には3通りの考え方があるとして、それぞれの定義を列挙している。
① 狭義の「国益」(領土、国民の安全・財産、経済基盤、独立国としての尊厳)
② 広義の「国益」(在外における資産、人の安全)
③ 日本の繁栄と安定の基盤を為す地域と国際社会の秩序(民主主義、人権の尊重、法治、自由主義、ルールに則った自由貿易)
いずれの定義を採用するべきだとまでは書かれていない。経済同友会には取材を拒否されたが、筆者は前後の文脈と長年の取材から、経済同友会が少なくとも②、おそらくは③の解釈に立っていると確信している。③はもっともらしくも聞こえるけれど、「自由貿易」を絶対的な善とするならば、グローバルビジネスの価値観に従わない存在は、それだけで日本の「自衛」の対象――すなわち敵だということになってしまう。かつ、「専守防衛」が「制約」で、「現実に即していない」とする立場を採る限り、“敵”は先制攻撃で叩かなければならないとのロジックに発展するのは自然の成り行きだ。
何のことはない。これはアメリカが戦後も一貫してきた安全保障観そのものではないか。多くの人々が「国益」を①の定義で捉え、それゆえに憲法改正論も北朝鮮の脅威や尖閣諸島の領土問題が根拠とばかり受け止められがちな現状とは、かなりの開きがあると言わざるを得ない。
想起されるのは、ベトナム戦争で盛んに強調された「ドミノ理論」だ。ある地域が共産主義に染まると、周辺地域もドミノ倒しのように次々と赤化していく(から共産勢力は殲滅すべし)という考え方で、第二次世界大戦の前後から多用され始め、1950年前後のマッカーシズム(赤狩り)で定着した。
東西冷戦が終結して、すでに30年近い。それでも資本の利益を最優先しない価値観を絶対悪と見なす独善は、“敵”を共産主義以外にも拡大してむしろ肥大化し、この日本でも声高に叫ばれるようになったのである。
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