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憲法9条、国民投票で真に問うべきこと(下)

自衛隊合憲論を前提にした「2項維持(安倍首相)vs.削除(石破氏)」に意味はない

石川智也 朝日新聞記者

自衛隊の栄誉礼を受ける安倍首相ら=2018年9月3日、東京都新宿区の防衛省

「9条をまもりたい人が多数」は正確ではない

 日本のメディアは昔もいまも、5月3日が近づくと9条改正への賛否を問う世論調査をする。ここ十数年、改正反対は6割ほどで変わっていないが、これを見て「9条をまもりたい人がまだ多数を占めている」と評価するのは正確性を欠く。具体的な改正案を示さない無意味な問い、という意味だけではない。どういうことか。

 この数字の内実は、読売新聞が2015年に行った、朝日新聞、毎日新聞とは異なる趣向の設問が参考になる。

 戦争を放棄し、戦力を持たないとした憲法9条をめぐる問題について、政府はこれまで、その解釈や運用によって対応してきました。あなたは、憲法9条について、今後、どうすればよいと思いますか――。

 回答は以下の通りだった。

A:解釈や運用で対応するのは限界なので、9条を改正する 35%
B:これまで通り、解釈や運用で対応する 40%
C:9条を厳密に守り、解釈や運用では対応しない 20%

 改正反対の6割という数字は、BとCの合計と合致する。ただ、この調査でも、回答者が9条をどのように解釈して答えたのか、あるいは9条に何を望んでいるのかは、まだはっきりとわからない。

戦争と戦力を容認する「護憲」派とは

 そこで、きわめて重要な社会調査の結果をひとつ紹介したい。

 市民グループ[国民投票/住民投票]情報室と雑誌『AERA』が2016年春に全国の街頭で行なった対面調査で、おそらく大手メディアがここ半世紀やったことのない突っ込んだ問いに挑んでいる。設問と選択肢は以下のような構成だった。

(1)もしも他国や武装組織が日本を攻撃してきた場合、日本への攻撃を防御する自衛のためなら、日本が戦争(交戦)することを認める/たとえ日本への攻撃を防御する自衛のためでも、日本が戦争(交戦)することを認めない
(2)(災害救助とは異なる)自衛のための戦力としての自衛隊の存在・活動を認める/認めない

 約700人の有効回答のうち「自衛戦争を認める」は53.6%、「戦力としての自衛隊を認める」は66.5%だった。

 眼目はその続きだ。この回答者に「あなたが選択した考えを日本の国家意思とするには、9条との整合性を図るために、これ(9条)を改める必要はありますか」と問うと、それぞれ65.2%、67.5%が「必要ない」と答えた。

 政府が続けてきたガラス細工のようなつじつま合わせすら破綻してしまっている。だが、この齟齬に回答者は気付いていない。あるいは気付かぬふりをしている。これが、我々が「護憲派」と呼んでいる人たちの実体だ。

 それは、自衛権をも否定する絶対平和主義者や非武装論者から、戦争・戦力を容認する人たちまでの混成である。ここで「憲法をまもる」とは、9条が規範として要請しているものを遵守・実現させることではなく、条文を変えさせないという意味に過ぎなくなっている。

 9条が「死んだ」のか「生きている」のかは、論者によって見解がまったく異なる。米国の海外派兵要求への盾となり、武器使用に煩瑣な条件を課し、「自衛隊がいる所が非戦闘地域だ」という倒錯した説明を政府に強いているという意味で、9条は確かに機能している。「戦力ではない」という建前が既成事実の積み重ねの速度を抑えてきたことも確かだろう。

 しかし、「新9条」や「9条削除」の提唱者たちからすれば、その抑制力はすでにほぼ失われている。そして何よりも、日本国憲法は、「戦力」を保持しないことになっているがゆえに、現に存在する戦力を統制する規定を持てないという致命的欠陥を抱えている。安倍改憲案に対する「自衛隊の行動をどこまで認めるのかすべて法律に丸投げになる」との批判は、現在でも、これまでにも、同様にあてはまる。

「論理」と「ことば」を蝕んでいく欺瞞

 PKO受け入れ国は裁判権放棄を認める地位協定を派遣国と結ぶが、日本は海外に自衛隊を送っておきながら、民間人を殺傷するなどの軍事的過失を裁く法体系を持っていない。「だから自衛隊を外に出してはならないのだ」と護憲勢力は言うが、交戦の当事国になる事態は、海外だけでなく、領土領海領空内でも起き得る。

 にもかかわらず日本だけが、主権国家の対外的責務とも言える法整備を想定していない。9条の下で「戦争」はなく、自衛隊がいる所で「戦闘」は起きないことになっているからだ。しかし、日報問題で明らかになったように、自衛隊が派遣されたイラクや南スーダンでは現に激しい「戦闘」があった。

 銃撃戦があっても、爆破があっても、ロケット砲を持つ武装勢力と交戦して死者が出ていても、「国または国に準ずる者による組織的な攻撃」という定義に沿わないから「戦闘」ではない。憲法上使うべき言葉ではないから「武力衝突」だ。「戦争」ではなく「武力の行使」だ。「戦力」ではなく「実力」だ――。

 カラスは白い鳥だと言えばそれが真実とでもなるかのようなこうした虚妄は、「森友学園」絡みの決裁文書改ざん問題や、沖縄密約・核密約問題で露わになった「国家の噓」と同根であろうし、さらに言えば、退却を転進、敗退を大勝利だと糊塗し続けた過去と地続きに思えてならない。

 こうした欺瞞は、法治の根源たる「論理」と、論理の拠である「ことば」を蝕んでいく。成文憲法を持つ立憲国家が、その憲法の文言を一文字も変えることなく、それまで憲法上できないとされていたことを行えるようになるというなら、憲法に書かれた「ことば」はいったい何を規定していたのだろう。

立憲的改憲案の有効性は?

 安倍政権による集団的自衛権容認という「究極の」解釈改憲で既成事実の拡大は限界に達し、9条は瀕死状態になった。いまここで、曖昧にしてきた「自衛隊を戦力として認知するのか」「自衛戦争を認めるのか」という点について、日本国民が主権者として自らの立場を選び、その集団的意思を憲法に反映させる。もし自衛隊を容認するのなら、存在しないことになっている「戦力」をごまかさず認知したうえで、それを厳格に「縛る」規定を、単純多数で変えられない憲法に書き込む。それが9条をよみがえらせ、国民主権と立憲主義を取り戻すことにつながる――というのが護憲的・立憲的改憲論者たちの主張だ。

 これに対しては、「どんなに条文で限定しても権力者は都合のいい解釈をする」(伊藤真弁護士)、「護憲勢力の中に分断を持ち込む」(宇都宮健児弁護士)、「改憲そのものを自己目的化する現政権の動きを裏側から支えてしまう」(杉田敦・法政大教授)と批判する声も多くある。

 また、9条は刑法のように文言による明瞭な指示内容を持たず、「個別的自衛権は合憲だが集団的自衛権の行使は違憲」というのが安定性と継続性をもつ有権解釈(条文に代わり権威として機能するもの)として戦後一貫していた(長谷部氏)という立場からすると、「9条と現実との乖離」と呼ばれる問題自体が仮象だということになる。

 しかし、護憲的あるいは立憲的改憲案は、それ自体、安倍改憲案に対するラディカルな批判を含んでいる。

安倍改憲案でも石破案でも本質は問えず

自民党総裁選で3選が決まり、石破氏と手を取り合う安倍首相=2018年9月20日、自民党本部
 安倍首相は自衛隊違憲論の払拭を改憲の目的に挙げているが、2項を残す改正では、自衛隊が戦力か必要最小限度の実力かという議論は消えず、違憲論も残る。自身のかつての持論でもあった2項削除に踏み込まないのは、発議に必要な3分の2以上の国会勢力確保が難しく、国民投票で否決されるリスクも取りたくないという臆面もない理由に過ぎない。「何も変わらない」なら立法事実すらない。

 英国は2年前、EU離脱か残留か明確な二者択一を示して国民投票を実施したが、安倍改憲案の国民への「問い」は欺瞞的であるだけでなく、改正による効果が不明という点で、真っ当な国民投票を実現する要件を満たしていない。自衛隊を軍として明記する改憲を求めてきた伝統的改憲派こそが本来はこの案を批判すべきだが、多くが「現実的だ」と受容している。

 石破氏の2項削除論は、安倍改憲案に比べればもちろん法的に筋は通っている。しかしそれは「正直・公正」のスローガンと同じで、対抗言説として効果をもつというだけだ。

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