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総裁選と「新潮45」で考えた政治をよくする方法

小池みき フリーライター・漫画家

総裁に選ばれた後の自民党両院議員総会で拍手する安倍晋三首相(中央)。左隣は石破茂元幹事長=2018年9月20日、東京・永田町総裁に選ばれた後の自民党両院議員総会で拍手する安倍晋三首相(中央)。左隣は石破茂元幹事長=2018年9月20日、東京・永田町

「政治家の仕事とは、真実を語ることだ」

 「政治家の仕事とは、勇気と真心をもって真実を語ることだ」という故・渡辺美智雄氏(元衆議院議員・副総理)の言葉を、私は石破茂元幹事長の著書『真・政治力』(2013)で知った。良い表現だなと思った。

 政治とは言葉そのものであるとか、言葉は政治の命である、というような言い回しはよく見聞きするけど、「真実を語ること」という表現には、また何かときめくものがある。ギリシャ哲学チックな趣を感じる。もしかしたら元ネタは、昔の政治哲学書か何かかもしれない。

 私は、渡辺氏の政治家としての業績も、人となりもよく知らない。ついでに言えば、石破氏のこともよくわからない。ライターとして一度取材をさせていただいたことがあるものの、「つかませない、おっかない人」という印象ばかり残っている(あと、議員会館の部屋に置かれたフィギュア)。

 そんなわけで、渡辺氏にも石破氏にも格別の思い入れはないのだが、この言葉だけは強く頭に刻まれてしまったし、二人の政治家とはもはや無関係に、私の中でも重要な言葉と化している。それはたぶん僭越ながら、自分の仕事にも通じるものを感じたからだ。「勇気と真心をもって真実を語ること」が政治家の仕事なら、文章を書くこともまた、形は違えどやっぱり「政治」なのだなと思った次第である。

 なぜ、真実を語ることが政治家の仕事なのか。それは私が思うに、より深いところにある真実を語ろうという努力こそが自分に克己のチャンスを与えるのであり、それに挑めば自分だけでなく、周りの人間もつられて動くことになるからだ。

 大勢に伝わるそのうねりが、語られた「真実」に共鳴し、増幅し、ビジョンの実現に向かってさらに大きな波を起こしていく――。どれだけ綺麗事であっても、それが「政治家の仕事」の、つまり「政治」という営みの根幹にあるのだと、個人的には信じる。

真実が語られなかった総裁選

 しかし、それを念頭に置いて総裁選を見たときの、このなんとも言えないモヤモヤ感はなんだろう。私の目には、誰も「真実を語ること」に熱心なようには見えなかった。

 報道は、それなりに見ていたと思う。討論中継もチェックしていたし、各新聞の報道も気にしていた。WEBRONZAもハフィントンポストも、iRONNAも東洋経済オンラインも見て、総裁選関係の記事はなるべく拾うようにした。Twitterでも、保守系のアカウントを集めたリストとリベラル系のアカウントを集めたリストを作って、完全に異世界である二つのTLを交互に見ていた。討論中継中など、両方のTLからそれぞれ「安倍/石破は目が泳いでいて、ろくに質問に答えられていない。これで石破/安倍の立派さが際立った」というツイートが流れてきて笑った。

 それだけやっても、いやだからこそというべきか、私の視界に入る人たちの多くが、「特に真実を語る・語られる必要を感じていない」ことを痛感したのである。

 安倍晋三首相にしても石破氏にしても、それぞれの支持者たちはTwitterなどで「安倍さんは/石破さんは誠実に話している」と評価していたが、私には心ここにあらずにしか見えなかった。というか、相手に何かを本当にわからせるつもりで話してはいないように感じられたのである。候補者二人だけでなく、その支持者や周りの政治家たち、総裁選について語る人たちにもおおむね同じ印象を抱いた。

 その印象を決定づけてくれたのはもちろん、安倍首相と石破氏のどちらを支持するか、投票ギリギリまで明かさなかった小泉進次郎氏だ。彼は「どちらの候補を支持するか」というマスコミの質問に対してこう答えていた。「真意というものは、語れば語るほど伝わらなくなる部分もある」。

 この言葉をはっきり口にしたのは進次郎氏だけだが、おそらく誰も彼もがそう思っていたのだろう。「おまえらに言ってもどうせ理解しないじゃないか。だから本気では言わない」と。

 だからなのかどうなのか、総裁選に対しての印象は全然残っていない。演説を聞いても、投開票後に一気に出た総評のような記事を読んでも、どんどん頭から実際の記憶が抜け落ちていってしまう。

 編集者氏から、「総裁選について書いてほしいんです。政治の専門家ではない、若い世代から見ての違和感などを率直に指摘してください」と言われていた私は困った。書こうにも、何の印象も残らないのでは書きようがない。違和感といえば全員が嘘くさく見えたことくらいだが、SNSなど見ているとそんな風に感じる人は少数派のようだし、そんなことを書いたら「お前が色眼鏡をかけているせいだ」と言われそうである。おっと書いてしまった。

右と左の線対称

特別企画「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」を載せた月刊誌「新潮45」10月号 特別企画「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」を載せた月刊誌「新潮45」10月号

 そんな中で起きたのが、保守系言論誌「新潮45」10月号の特集、「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」騒動であった。

 これは杉田水脈議員による同誌8月号への寄稿「『LGBT』支援の度が過ぎる」に対して批判が殺到したことを受けての特集で、かなり奇怪な内容のエッセイが集められた結果、前回よりさらに激しく燃えに燃える事態となってしまった(最終的に、9/25に新潮社の判断で休刊が決定)。

 同特集では、何人もの寄稿者が杉田氏のことを、「何にもおもねらない、率直な発言力が好ましい」という調子で肯定している。

 たとえば文芸評論家の小川榮太郎氏は「杉田氏には、多くの人が内心共感しつつも、黙らせられているテーマについて果敢に発言する珍しい蛮勇がある」、評論家の八幡和郎氏は「うるさい人を怒らせない方が良い、大人の判断をしろといった同調圧力に屈しない規格ハズレの人は貴重だと思う」といった風に。つまり杉田氏は、彼らから見れば「勇気と真心をもって真実を語る」政治家に属するらしい。

 杉田氏に寄せられた賞賛や共感の言葉を見ながら、私はどんどんいたたまれない気持ちになっていった。なぜならそれと似たようなことを、この原稿の編集者氏から私自身が言われていたからだ。私の場合は実績をそう評価されたのではなく、「そのような役割を期待します」というニュアンスで言われたのだが。

 もちろん編集者氏は過激思想の持ち主ではないので、私に暴言スレスレのかっ飛ばし系読み物を頼んだわけではない。ただ、ある種の権力批判をリクエストされたのもまた事実である。その際はこのように言われた。

 「率直な意見の方が、多くの人が共感すると思います。みんな、今の政治はおかしいなってどこかで思っているはずなので」

 「新潮45」の寄稿者たちも、きっと編集者にこう言われていたのだろう。つまり、あっちでもこっちでも、まったく同じことが起きているのである。

 ちょっと激しめのことを書けそうな若いの(我が国は言うまでもなく、51歳でも総理大臣から「若い」と言ってもらえる国である)を連れてきて、「率直に」何かを批判させる。すると、同じ陣営のフォロワー各位が溜飲を下げ、「いいね」ボタンを連打してくれる。敵対陣営の人々も、批判のために記事をシェアしてくれ、出版不況のなか雑誌が完売したりする。書き手が多少燃えようと、めったなことでは運営会社自体がつぶれたりはしない(「新潮45」の件は、意外に大掛かりな後始末が発生したけれど)。

 この構造を、むなしいと思わずにいられるだろうか。

マックの女子高生と首相を批判する小学生

 かたや「本当のことなんて言う必要ない」と皆が了承していたかのような雰囲気だった(に、見えた)総裁選。かたや「蛮勇」の女性議員がその「率直な」言葉を賞賛される「新潮45」。起きていることはまったく違うが、ここに私は共通するある気配を感じる。それは、「立場ある人間ほど、『真実』を直接語るべきではない」という意識の気配だ。

 若者論のブログを運営している後藤和智氏は、「『保守論壇』はなぜ過激化するのか?『新潮45』問題から見えたこと」 でこのように書いている。「現在の保守論壇を支えるものとして挙げられるのは、『被害者意識による連帯』と『鉄砲玉としての女性・若者の利用』です」と。

 個人的には、これは「保守論壇のみ」の問題ではないとも感じる。私が「政治に詳しくない立場からの率直な批判を」というリクエストを受けたように、似たようなことは、保守論壇でなくとも起きるのだ。批判対象が違うだけである。

 そもそも、政治以外の場でもそうだ。自分では言及しづらい「本質」を女性・若者に代弁させるというのは、ある種の定型としてある。Twitterの創作実話テンプレである「マックの女子高生」(マクドナルドで女子高生同士がこんな鋭い会話をしているのを聞いた、という体裁の書き込み)なんかはそれを象徴している。

 「ズバリ本質をついた批判をする」役割を、人は自分より弱い立場の人間に振りがちなのかもしれない。自分でも本当は言えることなのに、自分で言うといろいろ面倒なことがあるから、だから「鉄砲玉」に言わせるのである。これは完全に権力構造の中で起きることであり、そこで鉄砲玉として選ばれやすいのが女性・若者(時には子ども)だということも含め、非常に問題がある。

 この記事を読む人の中にはリベラル寄りメディアの人も多そうだから繰り返し書いておくが、これは保守メディアだけの現象ではない。私もまれに編集ポジションでコンテンツ作りに関わるので気をつけたいと思う。

 そういえば、以前のTV番組『池上彰スペシャル』で、仕込みと思われる子役が安倍首相とトランプ大統領の関係を「鋭く」批評した件も、「鉄砲玉」案件だろう。池上彰氏はその子の発言を、「子どもは、大人だったら怖くて言えないことをズバリ言うからすごい」と褒(ほ)めていたが、本当は「僕が怖くて言えないことを、代弁させてごめんなさい」と謝るべきだったのだ。

 非核三原則とともに唱えよう。鉄砲玉に、しない、させない、なったりしない。

自分から「真実」を語るしかない

夕日を浴びる国会議事堂。日本の政治はどこにいくのか。夕日を浴びる国会議事堂。日本の政治はどこにいくのか。

 「勇気と真心をもって真実を語ること」は、それほどまでに難しいことになってきているのだろうか。私の中では手応えのなかった総裁選、そして「鉄砲玉に鉄砲玉を追加したら大事故が起きた」という有様だった「新潮45」騒動を経て、そんな問いが浮かんでいる。

 しかし、結局のところ、どれだけ考えても、この綺麗事(きれいごと)に行き着かざるを得ない。

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