小宮京(こみや・ひとし) 青山学院大学文学部教授
東京大学法学部卒業。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。博士(法学)。専門は日本現代史・政治学。桃山学院大学法学部准教授等を経て現職。著書に『自由民主党の誕生 総裁公選と組織政党論』(木鐸社)、『自民党政治の源流 事前審査制の史的検証』(共著、吉田書店)『山川健次郎日記』(共編著、芙蓉書房出版)、『河井弥八日記 戦後篇1-3』(同、信山社)など。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
最初に、会津の歴史認識についてポイントをあげたい。
まず、薩長中心の歴史認識と異なり、会津は「朝敵」ではないとする。そこから、戊辰戦争は新政府軍と「朝敵」会津など奥羽越列藩同盟との戦いではなく、新政府と会津とは等しく勤王であると再定義される。その象徴が、「東軍」(=会津など)と「西軍」(=新政府軍)という表現であろう。
会津が「朝敵」ではないことの論拠は、孝明天皇の御宸翰(ごしんかん)=書簡のこと=である。御宸翰は、孝明天皇が会津を深く信頼していたことを示し、会津も勤王であったこと、会津の義を証明するものとされる。
この御宸翰が最初に紹介されたのは、1896(明治29)年7月11日の史談会の席上である。会津出身の南摩綱紀が紹介し、翌年に『史談会記録』61輯(1897〔明治30〕年11月)として刊行されたという(小林修『南摩羽峰と幕末維新期の文人論考』八木書店、2017年)。この時点では、会津から見た歴史は、未だ広く知られてはいなかった。
戊辰戦争の被害は甚大で、会津から見た歴史を描くことには困難が伴った。そうした中で、御宸翰が広く世に知られたのは『京都守護職始末』の刊行によってであった。
興味深いのは、1911年刊行の『京都守護職始末』の著者は健次郎の兄である山川浩とされていることである。浩は1898(明治31)年に死去していた。
なぜ、このような事態が発生したのか。
健次郎の甥・櫻井懋は著書『山川浩』(私家版、1967年)で次のように記した。
「この書は浩の遺稿となっているが実質的には健次郎の執筆するところである。しかるに何故著者を浩にしたかというと、一つには亡兄の志を継いだのと、他面には本書を世に出すとその影響するところが憂慮されるものがあったので、故人の名において世に問うことになったのだと聞いておる」(77頁、「遺稿「京都守護職始末」出版の経緯」)。
その内容ゆえに、世間の反響、とりわけ薩長出身者の反発を怖れたのである。
健次郎の心配は杞憂ではなかった。『京都守護職始末』刊行前に、会津出身の北原雅長の著作『守護職小史』が1898-99(明治31-32)年、『七年史』上・下巻が1904(明治37)年に刊行されていた(国会図書館のデータによる)。これらのなかで孝明天皇の御宸翰に触れたことが影響したのか、『七年史』刊行時には、北原が一時拘留されたという。健次郎はその再来を恐れたのであろう。
健次郎は『七年史』上巻に序を寄せている。
「唯佐幕勤王と排幕勤王との差異あるのみ。我邦維新史の多くは排幕勤王家の手に成れるを以て事の真相を得ざるもの少なからず。亡家兄去二堂先生之を慨し、京都守護職始末の著あり。故ありて未だ之を世に公にせず」(適宜句読点を付した)
文中の「去二堂先生」とは山川浩を指す。健次郎は会津を「佐幕勤王」として位置付けているが、世間には「排幕勤王」の歴史が溢(あふ)れていることを嘆いている。同時に『京都守護職始末』を公表していないことにも触れている。
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