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会津の歴史認識と山川健次郎

小宮京 青山学院大学文学部教授

元白虎隊士が昭和天皇の教育に関与したことが記された山川健次郎の日記の写本=秋田県公文書館拡大元白虎隊士が昭和天皇の教育に関与したことが記された山川健次郎の日記の写本=秋田県公文書館
 なぜ『京都守護職始末』を秘すことになったのか。

 それには、旧主・会津松平家の窮状と長州出身の三浦梧楼との交渉が関係している。健次郎は三浦から御宸翰の公表見合わせを依頼されていた。

 三浦は自伝『観樹将軍回顧録』(中公文書、1988年。原本は1925年刊)で、会津松平家の苦境を訴える健次郎の話を聞き、自らの目で御宸翰を確認したとする。同じく長州出身の山県有朋らを説くも成功しなかった。田中光顕・宮内大臣との会談の際に述べた言葉は、薩長出身者が御宸翰を脅威に感じる様子がよく表れている。

 「先帝の御宸翰が大分ある。これを拝読して見ると、はっきりとは分らぬが、とにかく会津が最後に至るまで一糸乱れずに奮闘したことはどうもこの御宸翰が本になっておるように思われる。もし今日こういう御宸翰が表面に出ると、変なことになりはせぬか。忌憚なく申せば、先帝の御在世が続いたならば、ご維新は出来なかった。これは明らかな事実だ。強いて言えば、陛下の御孝道如何ということになりはせぬかと思う。これを会津が出さぬということは幸いだが、もし出したら如何にするか」(312-313頁)

 三浦の説得と事の重大さを踏まえ、明治天皇から松平家に5万円を下賜することで決着したという(309-317頁)。

刊行の目的は会津の「雪冤」

 三浦は「爾来会津では固く徳義を守って、どこから何と言って来ても、この御宸翰は決して出さぬ。これだけはどうぞ出してくれるなと言ってあるから、ちゃんと守っている」としたが(317頁)、三浦の希望は長く続かなかった。前述した通り、1904年には『七年史』が刊行された。そして、三浦の依頼から10年余り経た1911年に、『京都守護職始末』が刊行された(花見朔巳編『男爵山川先生伝』故男爵山川先生記念会、1939年)。

 要するに、政府の反発を考慮しつつ、かつ三浦が尽力した松平家への下賜金の件もあり、亡くなった山川浩を著者とする体裁で出版せざるを得なかったのではないか。

 その後、健次郎は『京都守護職始末』を様々な人に送った。たとえば、健次郎が京都帝国大学総長を兼任した1914(大正3)年に、荒木寅三郎・前京都帝大総長事務取扱(10月1日)や日本中世史の原勝郎・京都帝大文科大学教授(12月21日)に送っている(尚友倶楽部・小宮京・中澤俊輔編『山川健次郎日記』芙蓉書房出版、2014年より)。その目的は会津の「雪冤(せつえん)」であった。

『会津戊辰戦史』を監修

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筆者

小宮京

小宮京(こみや・ひとし) 青山学院大学文学部教授

東京大学法学部卒業。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。博士(法学)。専門は日本現代史・政治学。桃山学院大学法学部准教授等を経て現職。著書に『自由民主党の誕生 総裁公選と組織政党論』(木鐸社)、『自民党政治の源流 事前審査制の史的検証』(共著、吉田書店)『山川健次郎日記』(共編著、芙蓉書房出版)、『河井弥八日記 戦後篇1-3』(同、信山社)など。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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