激しい腹痛、極度の寒気。同居人のクリスは「マラリアの可能性が高い」と言った…
2018年09月29日
(前回までのあらすじ)喜界島で育った少年は世界へ羽ばたくことを夢見て上京し、ウガンダの国連事務所で働く機会を得る。降り注ぐ陽光、そびえ立つガジュマル、一面のサトウキビ畑…。ウガンダの光景は喜界島そのものだった。人々の気質もダンスのリズムもそっくりだ。そこへ、思わぬ危機が忍び寄る。
目を開けると、最初に見えたのは、白い天井だった。すぐそばに真っ白な服をまとった大柄な男性がいる。自分の手から点滴の管がのびている。
時間を尋ねた。午後3時。僕はウガンダの病院に運ばれていた。
その前日、2015年10月6日夜。
あー。お腹痛い。お腹痛い。
症状は腹痛だけだ。僕はお腹が強い。そのうち治るだろう。安易に考えていた。
ウガンダに来て2週間が過ぎていた。その夜、4歳年上であるウガンダ人の同居人クリスがいつになく真剣な表情で僕に話しかけてきた。
「ちょっと話したいことがあるんだけど」
「なにー? いいよ」
「3週間目に入る。そろそろ、慣れて来た?」
「..........」
僕はお腹が痛かった。彼の言葉があまり頭に入ってこなかった。
「へい! スミ! 聞いてる?20歳でウガンダに来て、国連で働く経験は、みんなが出来ることじゃないんだよ?」
「いやあ、確かに」
「5ヶ月後、日本に帰るとき、ウガンダ最悪って思って欲しくない。日本とウガンダの懸け橋になって欲しいんだ」
クリスの言葉攻めがしばらく続いた。
人間は弱っている時ほど感受性が豊かになるのだろうか。 お腹を襲う激痛とともに押し寄せるクリスの真剣な言葉に、僕は涙が溢れそうになった。
部屋に戻った。 時刻は午後10時ごろだったろうか。
(この2週間、何をしてたんだろう。こんなことで泣いてなるものか)
そんなことを考えながら眠りについたことを覚えている。
極度の寒気、めまい、頭痛で目が醒めたのは、数時間後のことだ。
「ク、グレス、グラス……」
震えで、ろれつが回らない。クリスが目を覚ましたのは午前4時ごろだったようだ。彼に毛布と一杯のお水を貰い、一旦寒気は治まった。
「マラリアの可能性が高い」
クリスが言った。僕は知らない間に蚊に刺されていたのかもしれない。
クリスも国連事務所で働いている。彼はすぐに上司に連絡したほうがよいと言ったが、とりあえず様子をみることになった。
しばらくして再び寒気が襲う。これまで経験したことのない寒気だ。
クリスはすぐさま救急車を呼びに最寄りの病院へ走った。
呼吸が浅くなる。息が苦しくなる。お水が欲しい。だけど、誰も居ない。
顎からガクガクと震え、言葉が出ない。意識が朦朧としていて、何を言ったか覚えていない。その間にも、だんだんと意識が遠のいていく。体が燃えるようだ。
必死にもがくが、体全体から心臓の音、喉を伝う唾の音が脳内に響き、体がいうことを聞かない。全身から汗が吹き出し、息が出来ない。
一秒一秒が永遠のように感じた。気付くと、大声で叫んでいる。
「死にたくない!! やだー!!」
クリスが戻るまで数十分間、僕の頭の中にはなぜかZARDの「負けないで」がリピートされていた。
(あと少しって、あと何分だよ……)
ときに叫び、ときに歌う。その繰り返しだ。
クリスが誰かを連れて戻ってきたのは午前7時過ぎだったようだ。
「へい! スミ! ARE YOU OK?」
「……」
クリスの声は聞こえたが、僕がなんと答えたかは覚えていない。意識が朦朧としていく。だが、次の言葉は頭に入った。
「この家までの道のりが険しすぎて、救急車は入れないんだ。病院へ歩いていかなければならない」
歩く――。この時の僕には厳しすぎた。
目を開けると、最初に見えたのは、白い天井だった。真っ白な服をまとった大型の男性から、しばらく入院だと告げられた。
不安と寂しさが込み上げてくる。
僕は救急車が入れるところまでクリスらの力を借りて歩き、そこから救急車で搬送されたらしい。
その夜は再び、寒気と吐き気、頭痛で目が覚めた。ナースコールは故障していた。泣き叫びながらベッドを這い出し、転がるようにナース室に向かった。天井か床か区別がつかない。力尽き、廊下でうろたえていた。
ナースが気づいてベッドまで運んでくれたが、「寝てください」と言うだけだ。
次の日、汗を大量にかき、シャワーを浴びようと蛇口をひねった。水しか出ない。石鹸、シャンプー、タオルは一切ない。ベッドには薄い毛布が一枚だ。
僕はどうすることも出来ず、二日間、ただひたすら、耐えた。
アフリカ生活で一番の心配事は病気だ。特にマラリアだ。毎年、多くの人が様々な病気が原因で命を落としている。
クリスは病院からマラリアらしいと聞いたとのことだった。僕はほんとうに命の危険にさらされていたのだろう。
今思えば、文字通り身をもってこの病気を知ったのは貴重な体験だった。普段なら行くことのないウガンダの病院について知ることができた。
ウガンダで入院して痛感したのは、命を落とす要因は単に病気だけでないということだ。
入院初日。激しい頭痛で目が覚めると、ナースが右手に点滴の針を刺した。経験したことない痛みに泣き叫ぶと、彼女は露骨に嫌な顔をし「oh, sorry, sorry」と何事もなかったかのように左手に点滴を打とうとした。異議を訴えると、部屋から出ていった。
日本のように栄養バランスを考えた食事は出ない。お米に牛肉を乗せ、キャベツを添えただけのいわゆるウガ飯だった。
ウガンダの病院は,慢性的な医師不足に加え,診断能力も高いとはいえない。看護師など医療従事者の衛生観念も欠如していて、とても安心して医療を受けられる状況にない。
その背景にあるのは「教育」だ。
これまでの支援の形は、外国から医者を派遣し、最新の薬や道具を届けるというものだった。その結果、病院の数は増え、今すぐに救うべき多くの命が助かった。今後の課題は医療の質の向上と医療人材の育成だ。
医療人材を急に増やすため、1~2年程度の就学で「医療者」とした結果、医療人材の質は非常に低くなった。専門的な知識を持った指導者も圧倒的に不足している。いかに人を育て、教育していくか。言い換えると、これまでの『動く支援』から『動かす支援』への転換が求められているだろう。
一般の人々に「予防すること」の大切さを教育することも重要だ。
例えば、子どもは街中を裸足で駆け回っている。足を怪我し、そこから感染症になることを知らない。食事の前に手をきちんと洗わない人も多い。靴や手洗いが病気の予防に繋がると教えることから始めなければならない。
ウガンダ人が使う手洗い石鹸は日本の会社がシェアの多くを占め、病気を未然に防ぐ大切さを訴えている。医療現場では、青年海外協力隊がウガンダの病院で働き、物の管理の仕方、衛生面の向上に一役買っている。
「医療の技術と質」に関していえば、日本は世界トップレベルだろう。病気の蔓延を防ぐため、アフリカが直面している現実を分析し、建設的かつ長期的視野に立って、日本ができることはたくさんある。
2日間寝て、僕は回復した。アフリカの医療について考えたのは、もちろん、その後のことである。<to be continued>
*「喜界島に生まれて(7)国連で働く身だしなみ」につづきます。
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