2018年10月04日
「戦争が終わったら、イエメンに招待すると言われています。その時は2年ぐらいの休暇をとってくださいと。みんなの家に1週間ずつ泊まっても、おそらく2年以上かかるというから」
オーレホテルの社長であるキム・ウジュンさんは、そう言って愉快そうに笑った。済州島のイエメン難民にとって第一の恩人、キムさんは難民たちに部屋を安く提供し、また宗教的な理由で食事に困る彼らに、ハラル料理を作れるよう食堂と厨房を開放した。一時期は160名もの難民がこのホテルに滞在していたという。今は多くがホテルを離れ、それぞれの宿所を得たが、食堂は韓国語教室として使われている。私がチェックインをした時もちょうど授業の時間だった。
「覗いてきたらいいですよ。みんな集まっている」
そう言われて、食堂に降りていったら、「アンニョンハセヨ」と韓国語で挨拶された。「今日の先生」と間違えられたようだ。難民たちの韓国語教室はボランティアで行われており、島民が交代で先生になる。私もその一人と思われたのだ。本当の先生を待つ間、彼らと話をした。韓国語は習い始めたばかりで全く駄目だというが、英語はみんな流暢だった。
「彼らはもともと豊かな暮らしをしていたようです。最初にここに来た時も、100ドル札をいっぱい持っていて、毎日毎日、現金で精算してくれる。リッチなお客さんだと思っていました」
キム社長は当初、彼らが難民であることを知らなかったという。「金回りのいい中東の観光客」――韓国ではそのカテゴリーは歴史的に存在してきた。ところが、日に日に人数が増えていく。
「おかしいなと思ってインターネットで検索したら、『イエメン難民が済州島に』という記事が載っていた。あー、この人達だと、自分の眼の前の人々を見ながらびっくりしたのです」
今、済州島の難民問題には、人権運動家や宗教団体のボランティアなど様々な「活動家」がかかわっているが、キム社長はそういうタイプの人ではない。当初は上客だと思って揉み手で接していた相手が実は難民だった。そのうちに、どんどん増えていって、中にはお金のない人もいて、なんとか助けてくれという。さらに食べられるものがなくて困っているという。放っておけなかった。
「話を聞いてみたら、気の毒なんですよ。我々と北朝鮮のようなはっきりとしたイデオロギー対立があるわけでもなく、若者たちは戦場に連れて行かれる。内戦下のイエメンにいる以上、兵隊になって自国民と戦わなければならい。難民は命からがら逃げてきた人々です。済州島にもそんなことがあったから、彼らの立場はとてもよくわかります」
社長は「サーサム(4・3)」という言葉を出した。 1948年、米軍政下の済州島では、軍と警察が島民を共産主義者とみなして虐殺する「4・3事件」が起きた。3万人にものぼるといわれる犠牲者のほとんどは、思想的な背景などない無辜の民だった。
「あの時、我々も難民となって日本に逃れたのです。済州の人間は誰もが、親族に犠牲者や難民を抱えています」
4・3事件は、軍事独裁政権下の韓国で、長らくタブーとされてきた。済州島の人々は自らの親族を失っただけでなく、その事実すらも封印しなければならなかった。事件の真相究明や犠牲者の名誉回復に韓国政府が取り組むのは、1998年に就任した金大中大統領の時代以降である。
そこまでの50年間もの空白は、忘却を余儀なくさせた。韓国本土の人は4・3事件についてほとんど知らなかったし、済州島でさえも歴史は風化しつつあった。もしかしたら、そのことが世代間の断絶につながっているのだろうか。イエメン難民の受け入れをめぐって、世代によって温度差がある。中高年の方が
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