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喜界島に生まれて(7)国連で働く身だしなみ

国連職員はウガンダでは憧れの職業。でも僕は泥まみれで写真を撮るのが好きだった

住岡尚紀 明治学院大学生

ボランティアデーのイベントで、軽トラックの荷台に乗って写真撮影をする筆者

ウガンダと日本車

 ウガンダに着いた初日のこと。

「車を買いたいんだけど税金が高くて。君は日本人だから安く買えるだろ。お金は出すから日本へ帰ったら送ってくれないか?」

 いきなりそう言われて、僕は面食らった。新しく来るのは日本人らしいという噂が広まっていたのだろう。わざわざ僕のデスクまで来て「日本人なの? 私の車、Bluetooth聴けなくなっちゃって。見てくれない?」と言う人もいた。

 海外用の新車はものすごく高く、インターネットや中古車販売店を通して日本の中古車を買うことが多いらしい。説明書のたぐいは全て日本語表記。何かあったら日本人に聞いてみよう、となるようだ。

 同僚の友達から電話で「妹の車が故障したみたいで、〇〇通りにいるんだか来てくれないか?」と頼まれたこともある。日本人なら誰でも車を修理できると思っているのかもしれない。

 街で「ヘイ! チャイナ?」と言われ、そのたびに「ジャパニーズだ」というと、目を輝かせて「わお!ジャパニーズか!」「TOYOTA、 NISSANだろ!」と食いついてくる。

 それもそのはず。ウガンダを走る車の大半は日本車なのだ。

 その中でも目立つのがTOYOTA車。オフロードを走る四駆、ミニバスとして使われるハイエース、そしてヴィッツなどの小型車も町を走っている。

 市民の交通手段である乗合のタクシーも中古車が多いのだが、車体には「○○工務店」「○○デイサービス」という日本語が書かれている。時折、手書きの漢字とハングルがまざっていることもある。彼らにとって「日本車」はそれだけ魅力的なのだろう。

 ちゃんと走るかと疑ってしまうくらいドアがガタガタで「閉まらないからおさえとけ」と言われることもある。段ボールで補正された座席に座ることもしばしば。1回どころか2、3回廃車になっているんじゃないかと思う。

 それでも、走る。

 デジカメをはじめ、電子機器も大半は日本製だ。「日本=工業国」のイメージは強い。それを褒められると誇らしく思うのだが、「日本人=電化製品」とみられると話は違ってくる。日本人だからといって、器用なわけではない。車やカメラの話ばかりされると、正直うんざりもする。

 これは日本人から見るアフリカにも当てはまる。「アフリカ=貧しい、犯罪が多い」というイメージを持ちやすい。グローバル化でお互いの国のモノや情報が手に入りやすくなったが、イメージばかりが先行し、実はお互いのことを知らないのが現状ではないか。相互理解のためには、もっと人と人の交流が必要なのだろう。ウガンダで改めて感じたことだ。

まずは「やります!」

国連のイベントで
 僕がウガンダに飛んだ2015年9月、ニューヨークの国連総会で持続可能な開発目標(Sustainable Development Goals, SDGs)が採択された。僕はそういうことを全く知らないままウガンダの国連事務所に着き、すぐに「明日会議があるから目を通しておいてね」と100ページぐらいある冊子を渡された。内容が難しすぎて何もわからない。そんなスタートだった。

 国連事務所は完全に実力主義だ。仕事ができればどんどん回ってくる。出来なければ回ってこない。最初の数週間で見極められる。

 僕の最初の仕事は新聞を各部署に届けることだった。色んな人と挨拶を交わし、たわいもない話をする。そこから仕事を貰う。

 仕事が何も回ってこない日もある。お客さんが来たらお茶を出し、帰ったら片付ける。忙しそうに働く上司を見て、あまり役に立たない自分が不甲斐ない。

雨の日は通勤するだけで靴が泥だらけになることも

 言われた仕事をこなしているだけでは十分な信頼は得られない。その仕事に付加価値をつけ、臨機応変に、時間内に仕上げることが大事だ。

 東京の学生生活では、授業でもアルバイトでも頑張ったら評価してくれた。期限までに課題の提出が間に合わなくても受け取ってもらえたり、テストの成績がイマイチでも再テストのチャンスをくれたりする。

 しかし、ウガンダの国連事務所ではプロセスより結果が求められる。どれだけ寝ずに作業しようが、期限内に終わらなければ次から仕事は回ってこない。僕はそう覚悟した上で「これ出来る?」と言われれば「やります!」と答え、それからどうすれば出来るのかを考えた。いかに頑張るのかではなく、いかに結果を出すかに集中した。

 ひとりでは到底間に合わない仕事はためらわずに人にお願いした。僕は英語が得意ではなかったので、英語と日本語を使いこなす日本在住の友人に翻訳をお願いした。動画編集を頼まれたら、できる人を探して手伝ってもらった。とにかく協力してくれる人、助けてくれる人を見つけて、与えられた仕事をこなす日々だった。

国連カレンダー

ボランティアデーのイベントで市場を掃除
 この年はウガンダの国内選挙をはじめ大きなイベントがたくさんあった。

 僕は国連事務所の広報担当だったので、国連のSDGs関連のイベントがあれば現地へいき、現地の記者と一緒に取材し、写真を撮った。新聞やテレビ局の記者の動きを見て、ついていくことから始めた。その場にいた記者の誰かが撮ったであろう写真が次の日の新聞で掲載されたり、そのイベントのニュースがテレビで放送されたりしたら、自分の写真と見比べ、どうしたらもっと上手に撮れるか考えた。

 一番のイベントは12/5日の国際ボランティアデーだった。その日に向けて国連事務所も大忙しだった。マーチングバンドを引き連れて首都カンパラ市内の事務所から近くの市場まで歩き、そのあと、市場の掃除を行う計画だ。

 その日のためにTシャツをつくり、みんなでパレードを行った。全員が新品のTシャツを身に付け、大きな横断幕を広げ、颯爽と歩く。ストリートチルドレンたちも、貧しい人たちも、足をとめて僕らの方をみている。

 国連職員は現地の人から見て憧れの職業だ。僕が国連で働いているというと、「俺も国連職員として働きたい。車も免許も持ってるから雇ってくれないか」と現地の優良企業に勤めている人からも言われた。

 国連事務所の上司は毎日スーツを来ている。「国連職員らしい身だしなみをしなきゃだめだよ」としばしば注意された。

 雨の日に舗装されていない赤土の道路を歩いて通勤すると靴が汚れる。事務所を出るときは靴を磨いてからいくようにとも言われた。常に国連で働いている自覚とプライドを持ち、清潔感を保って生活するようにとも言われた。

筆者が撮影した写真を使った国連カレンダー。明治学院大学の一角に。

 国連で働いていると普段会えない人に会える。同時に国連で働いているからこそやりにくいこともある。とくに悩ましかったのは、支援システムの構築など「全体の視点」が優先され、いま目の前で困っている1人の人を実際に助けることが思いのほか難しいことだった。

 僕がウガンダで撮った写真は、国連のカレンダーにいくつか採用された。靴を泥まみれにしながら撮影したものもある。国連事務所内で働くことよりも、外に出てカメラを構える方が、僕は好きだった。上司もそう感じて、撮影の仕事を回してくれたのだろう。

 喜界島の実家と明治学院大学の国際センターに置かれた古びたカレンダーを見るたびに、あの日々を思い出し、気持ちが新たになる。<to be continued>

「喜界島に生まれて(完)ローカルとローカルを繫ぐ」につづきます。最終回です。

喜界島