小宮京(こみや・ひとし) 青山学院大学文学部准教授
東京大学法学部卒業。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。博士(法学)。専門は日本現代史・政治学。桃山学院大学法学部准教授等を経て、2014年から現職。著書に『自由民主党の誕生 総裁公選と組織政党論』(木鐸社)、『自民党政治の源流 事前審査制の史的検証』(共著、吉田書店)『山川健次郎日記』(共編著、芙蓉書房出版)、『河井弥八日記 戦後篇1-3』(同、信山社)など。
秩父宮雍仁親王と松平勢津子の結婚で果たした役割
そのため、1928(昭和3)年9月に秩父宮と松平節子との結婚が実現すると、会津関係者は大いに喜んだ。
晩年の健次郎はこの結婚に尽力したと伝えられている。対外的には、結婚決定を受け旧会津藩の人々が奉祝委員会を組織すると、健次郎はその委員長に就任した。さらに御納采の答礼使も務めた。東京帝国大学総長や東宮御学問所評議員を歴任した健次郎は、会津出身の有力者として活躍したのである。
次に引用するのは、ある祝辞への健次郎の返信である(花見朔巳編『男爵山川先生伝』故男爵山川先生記念会、1939年、440-441頁)。
「旧主容保儀地下に於て如何計感激いたし居り候事と存候。旧同藩士民一同初めて青山白日を仰ぎ候様なる心地にて狂喜罷在候。殊に拙生等の如き旧藩主家と縁故最も深き者に取り候ては、只々涙を流し候のみ」
文面には「朝敵」の冤(えん)を雪(そそ)いだ喜びが溢れている(以上、小宮京・中澤俊輔「帝国大学総長 山川健次郎日記(写本)前編」『中央公論』2014年1月号)。
ここからは、当時宮内次官を務めていた関屋貞三郎の日記を見ていきたい(茶谷誠一編『関屋貞三郎日記 第1巻』国書刊行会、2018年)。
日記からは、関屋次官が、節子の父・松平恒雄らと交渉している様子が浮かび上がる。1928年6月24日の記述は以下の通り。
「松平恒雄君及令夫人来訪。十一時より午後二時に至る。午餐を共にし懇談。
一、従来の経過。
一、御輿入前の諸件。
御輿入後の諸件につきては後日を期す(諸件は極めて必要緊切なる事項につき、別冊に要項を記述す)。」
日記中の「別冊」が不明なため、これ以上のこと分からない。7月6日の日記には「夜、松平大使夫妻来訪。之にて懇談三回に及ふ」とあり、様々な交渉を行っていたことは分かるが、その内容は今一つ分からない。交渉内容の一端が垣間見えるのは、8月4日の日記である。
「松平大使訪問。節子姫改名の件につき懇談。
勢津、勢都、等。」
関屋次官は松平恒雄と、節子の改名の相談をしている。貞明皇太后の名前は「節子(さだこ)」であり、畏れ多いということで節子を改名させたのである。節子の回想によれば、
「伊勢の「勢」と会津の「津」をとって勢津子と決まりましたのは、入江皇太后宮太夫が幾つか選ばれた中から、皇太后さまがご選定あそばされた」
という。改名の実行は婚礼の約10日前、9月17日であった(秩父宮妃勢津子『銀のボンボニエール』講談社、1994年、155頁)。
引用した『関屋日記』からは改名の下準備が分かる。そこから、「津」の字にこだわったのが松平恒雄の可能性があることが分かる。形式上は皇太后の選定ではあるが、実態としては、松平家の会津に対する思いが込められているのではないか。
秩父宮と勢津子の婚礼は9月28日、無事行われた。
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