韓国史を動かす「愚民」たち
民衆を愚民視し、外部勢力に取り入るエリートたちが国をダメにする
徐正敏 明治学院大学教授(宗教史)、キリスト教研究所所長
朝鮮の王は権力を大きく制限されていた

ソウル中心部にある世宗の像。ハングルは世宗のもとで作られ、広められた=2010年3月28日
朝鮮王朝は儒教原理の宗教国家であった。儒教の政治哲学の理想を実践することが目標であり、その中で国家の構成員、すなわち王、官吏、民はそれぞれの徳目と役割を充足させなければならなかった。それによって「民が天である」という理想を実現しようとした国家であった。
そのことをより具体的に知るためには、なによりもまず最高権力者たる王の役割を理解しなければならない。
朝鮮王朝の王は絶対君主ではなかった。王は自身の意志や統治政策の選択の大部分を、王朝初期に確立された法や伝統や慣例、そしてなによりも儒教に基づく礼法、倫理を根拠にして決定しなければならなかった。
王権を制限するために、在野の儒者「ソンビ」(学識ある貴族で官吏登用に漏れた者や、現実政治からはシニカルに距離を置く者)がいかなる事案についても個人的あるいは集団的な意見を具申する「上疏」(王に建議書を提出すること)という制度が整備された。君主はこの「上疏」を深刻に受け止め、重視しなければならなかった。このほかに「重臣」と呼ばれる内閣の全会一致という制約もあった。
さらには「三司の懇」という制度もあった。現代的な表現でいえば、言論、監察、学術を担う中枢的な国家機関の首長、つまり「司諫院」(国立言論機関)の長である「大司諫」、「司憲府」(国家高位公務員監察機関)の長である「大司憲」、「弘文館」(国立学術機関)の長である「大提學」が合議し、君主の決定に問題がある場合に反対すれば、王は結果的に自身の意志を行使できないという仕組みであった。
それら三つの機関の首長の職位は最高位に相当するものではなかったが、言論、監察、学術を統括する立場の者であり、儒教の原理にのっとり彼らが一致した意見を建議する場合には、いかなる君主もその意見を無視することはできなかった。もしそれを無視する場合には、それこそ「暴君」のそしりを免れないのである。
さらに朝鮮の王には、栄達を望めない下級官吏としての歴史家「史官」が王のすべてを記録する制度があった。単純な記録係というよりは、儒教の原理に基づいて君主が正当な政治をしているかどうかをチェックする役割であったといえる。