ついにウガンダを去る日。東京へ帰り、喜界島へ帰省した筆者は何を想うか。最終回。
2018年10月13日
〈Expiry Date:21/02/2016〉
僕の国連身分証には2016年2月21日までの有効期限が記されている。いよいよウガンダの国連事務所で働く最後の日だ。
首都カンパラにあるオフィスには半年間通った。その朝、いつもの道が寂しい。建物にいた全員が仕事をストップし、外まで見送りにきてくれた。
思えば、生活するだけでの手一杯だった。何度も日本に帰りたいと思った。先輩たちの仕事ぶりに嫉妬することもあった。それでも最後までいられたのは彼らのおかげだ。
二十歳だった僕に国連職員は遠い存在だった。アフリカで活躍する日本人にもたくさん出会うことができた。彼らと自分を比べて、劣等感に泣いてしまうこともあった。日本に帰ってから何をするのか、どんな人生を歩むのか、自問自答を重ねる毎日だった。
これからも学び続け、さまざまな経験を積んで、いつかもう一度ウガンダへ戻ってきたい。
「次こそはウガンダのために貢献できる人になって帰って来ます」と約束し、全員と握手して、僕は国連事務所を発った。
最後の夜は、ウガンダ人の同居人クリスと彼の友人、近所の人たちを招いてホームパーティをした。来てくれた全員に感謝の気持ちを込めてご馳走した。
クリスは勤勉なウガンダ人だった。朝早く家を出て、帰ってくるのは22時を過ぎることが多かった。彼の友人たちがいつも家にいて、僕の面倒を見てくれた。週末にクラブに行ったり、実家を案内してくれたり、一緒にサッカーをしたり。熱病にうなされた時、病院に駆け込んでくれたことは忘れない。彼抜きでは、僕のウガンダ生活は成り立たなかった。一生大事にしたい友人だ。
ウガンダどうだった? 楽しかった。
また帰ってきたい? うん。
何を話せばいいのかわからず、とりとめのない会話が続く。遠距離恋愛を始める前のカップルのようだった。
僕がウガンダに着いた当初、舗装されていなかった道路は綺麗になっていた。建設が始まった建物は完成間近だった。近所の子どもたちはずいぶん大きくなった。近くの市場の衛生状態もずいぶん良くなった。
この国は生きている。急速に成長している。幼子がどんどん大きくなるように、ものすごいスピードで育っている。
クリスと散歩しながらそんなことを考えていた。
毎朝クリスを見送ってきた僕が、今日はクリスに見送られる。いつものように「また後でね」と言えない寂しさで溢れた。
日本は寒かった。
日本を離れたのは9月。僕は冬服を持っていなかった。半袖半ズボンだった。しまった!
喜界島から上京するまで、僕は本物の雪を見たことがなかった。大学1年の冬に人生初の積雪を経験したときの興奮は忘れられない。今年は雪を見ることはできなかったな。ふと、そんな思いが浮かんだ。
半年間、タイムスリップしていたのかもしれない。すぐにまた東京での生活に慣れてしまうのだろうか。
空港からの電車であたりを見渡す。みんなが同じような顔に見える。喜界島から上京した矢先、空港からの電車のなかでおじさんに凄まれた光景が浮かんだ。どの電車に乗っていいかわからず、僕は慌てて横入りしてしまった。見知らぬおじさんにキャリーバックをいきなり蹴られ、謝ったら、睨まれたのだった。
いつも足早に歩き、何かに追われるような日々。駅の改札で前の人がすこしモタモタすると、イライラしてしまう日々。社会や時間の流れに自分の人生が埋もれていくような気がして、ぞっとした。自分ではない「誰か」の人生を生きている。常に「なにか」に追われ、「なにか」に支配されている。そんな感覚が蘇ってくる。
なぜウガンダの人たちはあんなにキラキラとしていたのだろう。
そういえば、喜界島でもよく「島だから」と言われた。いまの僕には分かる。「This is Africa」と「島だから」は、同じ意味なのだ。
仕方がないと割り切って、諦める暮らし。ウガンダで喜界島での生活を思い出した。喜界島の人も、ウガンダで出会った人も、みんなまっすぐで温かい。
東京は忙しい。回転木馬のように同じ所をグルグルと回っている。選択肢が多過ぎて、やろうと思えば出来てしまう。だから諦めることが許されない。
クリスと暮らしたウガンダの家へ歩いたように、僕は東京でも最寄りの駅から携帯をバックにしまってとぼとぼと歩いて帰る。次第に街灯の数も減り、今日がどんな一日だったかを振り返りながら、時には遠回りして帰る。一日のうちで、この時間だけは、目的もなく歩く。
雑音に聞こえる音も最小単位に分解していくと、遠くで鳴いているどこかの犬、スナックから漏れる歌謡曲。何気なく入ったコンビニの店員の「いらっしゃいませ、次のお客さまどうぞ」の掛け声。すべては誰かが生み出した「生きている」証だ。
アスファルトの切れ目から生え始めた緑の葉は夜を越えるたびに大きくなる。久しぶりにそこを通ると黄色の小さな花たちが生まれたての赤ちゃんの髪の毛のように細く、薄くなっている。そよ風に乗って新しい命をどこかへ運んでいくんだなあ…。漠然と物思いにふける贅沢な時間。
けれど、僕が探していたものは、自分自身をながめることができる場所だった。いまの僕にはわかる。遠くに行くことや普段の生活から離れることが旅ではない。何げない毎日の変化を感じ取り、「日常を旅する感覚」で生きる。それが人生の旅だ。喜界島、東京、ウガンダの地で暮らして、僕はそのように生きる喜びを知った。
アフリカの大地に降りてから3年の歳月が流れた。
あの日々の記憶が薄れてきた今年の夏、僕は喜界島に帰省した。
「はげー。だーちゃ、ゆくむどうてきたね。かんしんじゃ」
祖母が島の方言で出迎えてくれた場面はこの連載の初回で紹介した。僕はこの時、友達を連れて帰っていた。
「ばあちゃん、友達連れて来たよ?」
「はげー。じゃからいじゃすよ?」
「???」
「どこから来たの?? って言ってるよ」
僕が友達に方言を訳して伝える。
あれ? これ、前にもあったような気がする。そうだ、ウガンダだ。国連職員たちは村に行くときにいつも英語を現地語に訳していた。
ウガンダの新聞や国連文書は英語で書かれている。仕事先ではみんな英語を話す。英語ができれば日常生活で不自由を感じることはない。
でも、ウガンダ人同士は現地語を話すことが多い。街に出て覚えたての現地語を話すと、相手の表情が一気に明るくなる。僕も喜界島にいた時、島外から来た人が一生懸命に方言を話そうとしていると嬉しくなったのを思い出す。
今のウガンダも現地語ではなく英語を推奨し、小学校からは完全に英語で授業をしている。家が貧しくて学校に通えない子どもたちは、現地語しか話せず、村から出て仕事をすることが難しい。
一方で、喜界島ではいま、方言の衰退とともに島の文化も消えていくことが大きな課題となっている。正直な話、僕らの世代は、方言を聞くことはできても使いこなして話す事ができない。
島の方言に文字はない。口承で先祖から受け継がれてきた。島の言葉でしか表せないことわざや風習もある。
ウガンダの村にもきっと彼らにしかない文化や伝統が根付いているはずだ。
ウガンダと喜界島に限らない。日本社会が直面する諸課題―少子高齢化、学校教育、環境問題―も、世界のあちこちで同じような課題に悩み、解決へのヒントを探っている人々がいるのだ。
グローバル時代にローカルとローカルを繫ぐ「グローカル」。世界中の人々がより豊かに生きる鍵がそこにある。
けれども、これからは、その「何のため」を自分で見つけていかなければならない。子どもたちの未来のため、お客さんの笑顔ため、会社の利益ため、喜界島の文化を守るため…。すべてのことに対して「何のため」をしっかり考え、実行していくことが、大人の責務だと思う。
そして、いつも「助けてもらう」側だった僕が、これからは「助ける側」に立たなければならない。それが大人の仲間入りをするということだ。
喜界島の人々も、島を離れた僕たちの背中を押してくれている。〈The End〉
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください