平成政治の興亡 私の見た権力者たち(1)
2018年10月13日
早朝、川崎市麻生区の自宅にかかってきた一本の電話が、私に昭和の終わりと平成の幕開けを告げた。1989年1月7日。土曜日の午前5時過ぎだった。
電話の主は朝日新聞政治部の首相官邸キャップ、池内文雄氏。「天皇陛下が危篤らしい。すぐに官邸に行け」のひと言だった。私はその瞬間、「まずい!」と思った。
当時、私は竹下登政権をカバーする政治部官邸記者クラブで、小渕恵三官房長官を担当。天皇陛下の病状が悪化して以来、連日、「夜討ち朝駆け」で小渕氏を取材していた。東京・王子の自宅や、定宿にしていた赤坂のプリンスホテルなどに、新聞社の車で行っていたが、この日の前の晩は、金曜の夜ということもあって、同僚たちとしこたま酒を飲み、帰宅したのは零時過ぎ。翌日は土曜日なので、昼までに出社すればよいと油断し、朝駆け用の車の手配もしていなかった。
そこに、キャップからの電話である。「駅まで歩いて電車で向かうか、タクシーを探すか」と、途方に暮れた時、ふと思いついたのが、前日の飲み会での会話だ。政治部で2年後輩の加藤洋一君が、翌朝は私の自宅近くに住む石原信雄官房副長官の家に朝駆けすると言っていたのだ。
「加藤君は石原氏の車に同乗して取材するはず。それなら、加藤君の車は空く」と思い定め、朝日新聞社の車両担当者に電話。加藤君の車の電話番号を聞き出した。幸運なことに、すぐに加藤君と電話がつながった。車を私の自宅に回してもらって、飛び乗った。
首相官邸に着いたのが6時すぎ。小渕官房長官の部屋に向かうと、部屋の前では秘書官やSPが緊張の面持ちで立っていた。部屋から記者会見場に向かう小渕氏に「ご危篤ですか」と尋ねたら、小さくうなずいていた。
6時35分からの記者会見で、小渕氏は「天皇陛下には本日午前4時過ぎ、ご危篤の状態になられた」と発表した。しかし、実際にはその会見の直前の6時33分、天皇陛下は崩御していた。小渕氏が「崩御」を正式に発表したのは7時55分だった。
午後2時37分、小渕官房長官が「新しい元号は、平成です」と発表。歴史に残る場面を、この目で見届けた。昭和が終わり、平成が始まる。それは、長く続いた自民党の一党支配を大きく揺るがす「政治大乱」の幕開けでもあった。
2月24日には昭和天皇の国葬にあたる「大喪の礼」が行われ、各国の首脳が弔問のために来日。昭和から平成への代替わりが一区切りついた、とも思われた。竹下政権内部からは「政局の雰囲気も変わってくれればよいが」(小渕氏)といった声が出ていた。
というのも、竹下政権は前年から暗雲に包まれていたからだ。
1987年11月に発足した竹下政権は、中曽根康弘政権を引き継ぎ、自民党内最大派閥の竹下派に支えられた強力な政権だった。ポスト中曽根の総裁レースを争った安倍慎太郎を自民党幹事長に、宮沢喜一を蔵相に据えた。さらに、「竹下派七奉行」と呼ばれる側近を政権の要所に配していた。小渕官房長官、小沢一郎官房副長官、橋本龍太郎自民党幹事長代理、羽田孜農水相、梶山静六自治相、渡部恒三国会対策委員長、奥田敬和衆院予算委員長である。その布陣に乗って、竹下首相は88年12月、3%の消費税を導入するための関連法を成立させた。「長期政権」の呼び声が高まっていた。
その政権を襲ったのがリクルート事件である。
発端は地方自治体のスキャンダルだった。88年6月、就職情報企業のリクルート社が川崎市の助役に対して、値上がり確実な関連企業リクルートコスモス社の未公開株を譲渡していたと朝日新聞がスクープした。
その後、未公開株の譲渡先は政界へ拡大。本人や家族、秘書らが未公開株を受け取ったとして、竹下首相、安倍幹事長、宮沢蔵相、渡辺美智雄政調会長、中曽根前首相、藤波孝生元官房長官などの名が連日、報道された。株の売買で巨額の売却益を得る「濡れ手で粟」という言葉が流行した。89年2月には、江副浩正・リクルート社前会長らが東京地検特捜部に逮捕され、刑事事件に発展していった。
株購入だけでなく、リクルート社からパーティー券を購入してもらったり、借り入れたりしていた政治家の名が次々と明らかになった。閣僚でも長谷川晙法相、原田憲経企庁長官への資金提供が判明し、辞任に追い込まれた。
4月24日深夜、私は担当する小渕官房長官を取材するため、定宿の赤坂プリンスホテルに向かった。部屋の前に出てきた小渕氏は「総理は淡々としている」と語り、竹下氏の進退については明言しなかった。ただ、その目が赤く充血していたことを鮮明に覚えている。首相退陣の流れは固まっていた。
翌25日、竹下首相が退陣を表明。「リクルート問題に端を発する今日の深刻な政治不信の広がりはわが国の民主主義にとり、極めて重大な危機だ」としたうえで、「特に私の周辺をめぐる問題により、政治不信を強めてきたことについて国民のみなさまに深くおわび申し上げる」と語った。そして、新年度予算の成立後に退陣することを明言した。「最低でも4年は続く」(小渕氏)と思われていた竹下政権は、576日の短命政権で幕を閉じることになる。
退陣表明の翌26日、竹下氏の金庫番といわれた秘書青木伊平氏が自殺。竹下政権に衝撃を与えた。青木氏が亡くなる直前、私は別の秘書から、こんな話を聞いていた。
「伊平さんが『リクルートからの金の出入りを東京地検にすべて把握されている。もうどうしようもない』と嘆いている。相当思い詰めている」
ここで、竹下政権の意味を考えてみよう。
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