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立憲的改憲論に批判的な人たちへ

安倍改憲は阻止したいけど立憲的改憲論には批判的な人たちへ(上)

倉持麟太郎 弁護士(弁護士法人Next代表)

結党1年。立憲フェス会場内のフォトブースで写真におさまる立憲民主党の枝野幸男代表=2018年9月30日、東京都新宿区大久保結党1年。立憲フェス会場内のフォトブースで写真におさまる立憲民主党の枝野幸男代表=2018年9月30日、東京都新宿区大久保

誰が誰よりどうだとか……

誰が誰よりどうだとか
誰の仕事がどうしたとか
そんなことを言ってゐるひまがあるのか
さあわれわれは一つになって 〔以下空白〕
(宮沢賢治『生徒諸君に寄せる』より)

 今年の5月3日、立憲民主党代表の枝野幸男議員が「僕は立憲的改憲論者ですから」と述べてから、憲法論議に「護憲」「改憲」のほかに「立憲的改憲」が加わった。翌日の全国紙の一面には“第三極”という表現も現れた。

 立憲的改憲論とは何か? 一言で言えば、リベラルな観点から、より多様で自由な領域を確保するために権力を統制していく改憲を、提案するものである。

 もちろん、これを歓迎する人々もいれば、眉を顰(ひそ)める人たちもいる。実際、立憲的改憲論にはこれまで、幾つも批判的な言説も寄せられている。だが、これらの批判的言説を見ると、安倍晋三首相が進めようとしている「安倍改憲」を批判する勢力における、内部分裂的様相を呈しており、決して生産的なものとは言い難い。

 近時邦訳が刊行された『リベラル再生宣言』(マーク・リラ[著] 駒村圭吾[解説] 夏目大[訳] 早川書房)で、コロンビア大学マーク・リラ教授は、リベラルな立場からリベラルの自己崩壊性を指摘している。リベラルの敵はトランプではなく、その内部の問題にある、というのである。

 本稿では、リラ教授の議論を紹介しながら、立憲的改憲への批判的言説を吟味しつつ、立憲的改憲のコンセプトを再点検する。さらに、立憲的改憲論の一番の標的である「安倍改憲」の問題点についても、あらためて整理したい。

 その底に流れる「主題」は、冒頭掲げた宮沢賢治の詩である。賢治は、中学生を前にして、「生徒諸君に寄せる」と題する詩を送っている。

まるでいない敵をたたくシャドーボクシング

 立憲的改憲というプロジェクトに対する批判の矢を最初に飛ばしたのが、長谷部恭男早稲田大学教授である。

 長谷部教授は、元東京大学教授であり、学会や法律家共同体を中心とした言論界には大きな影響力のある方であるだけに、この批判は検討すべきであるし、誤解や誤導を含むものであれば、きっちりと反論し、より良い議論のために争点の“歪み”をただす必要がある。

 まず、この批判は、果たして立憲的改憲への批判なのかが判然としない点がある。というのも、立憲的改憲が主張していない内容について、「立憲的改憲とは●●という主張だが、問題があります。」といった批判をしているのだ。

 もし、ある料理屋の看板メニューのハンバーグのソースが「おろしポン酢」しかないのに、「この店のハンバーグのデミグラスソースは●●という欠点がある」と批判されたらどうだろう。おそらくその料理屋も困惑し、強く抗議するだろう。「うちにそんなメニューはない」と。これはもう、“風評被害”のたぐいである。

 ここではこれを、そこにいない敵に対して拳を向けることになぞらえて、「シャドーボクシング」と呼びたい。

 くわえて誤導的だと感じるのが、立憲的改憲が安倍改憲と同様の危険がある、という趣旨の指摘がなされていることだ。これは何らかの「結論」から逆算した指摘だと考えられ、ある別の動機が見え隠れする。具体的に言えば、現在の政治状況で主張される改憲論は、すべて悪として葬り去ろうという運動論的な「結論」から逆算しているのである。

 この立論が秋波を送るのは、長谷部教授と同様の論陣を支持する人びとであり、その人びとから最も支持を得ることができるという運動論的な動機がある。すなわち、最凶最悪の安倍改憲と同じ欠点があるとすれば、その改憲論は中身を精査することなく、一方的に非難することができる。これは、中身や論理に目を向けさせない、運動論としての誤導であり、フェアではない。

ポジティブリストではない立憲的改憲論の9条論

衆議院憲法審査会において意見陳述をする長谷部恭男氏=2015年6月4日、国会衆議院憲法審査会において意見陳述をする長谷部恭男氏=2015年6月4日、国会

 次に、その批判の中身を吟味していこう。

 長谷部教授によれば、「自衛隊のできることを『ポジティブリスト』として、一つ一つ憲法に書き込もう、その方が明確になる、と主張する政治家やグループがいます」として、立憲的改憲論とおぼしき考え方についてまとめておられる(以下、長谷部恭男著『憲法の良識』朝日新聞出版)。

 以下、こう続く。

 「しかし、九条の規定を明確にすれば安全だ、という考えは、じつは危険をともなうと私は思います。このような改正を提案した人は、本来であれば自衛隊法などのふつうの法律に書くべきことを、憲法の中に一つ一つ書くことについて、いわゆる『限定列挙』のつもりで提案しているのかもしれません。限定的にとどめることで、それ以外の自衛隊の活動はあり得ない、と釘を刺しているつもりでしょうけれど、いったんそういう条文ができてしまうと、政府の側としては、拡大して理解しようとするものです」

 まず、自衛隊のできることをポジティブリスト方式で規定すると指摘する点。立憲的改憲論は、「自衛隊」の活動範囲ではなく、「自衛権」の発動要件を規律するものであり、個別に自衛隊の任務を限定列挙するというものではない。

 基本的には、我が国が9条のもとで許されている、専守防衛の理念に基づく制限された個別的自衛権の発動要件たるいわゆる旧3要件(①我が国に対する急迫不正の侵害があり、②これを排除するために他の取りうる手段がない場合、③必要最小限の範囲内で自衛の措置をとれる)をもとに、自衛隊が戦力であることを真正面から認め(正当化)、コントロールしよう(統制)というコンセプトである。

 さらに、旧3要件とは、自衛権の発動要件であるから、開戦の要件であり、自衛隊の任務を列挙するものではない。

 ポジティブリストという用語の対義語は、自衛隊が「できない事項・禁止事項」を列挙し、それ以外はできるとする「ネガティブリスト」である。だが、自衛権発動要件=開戦の要件は、自衛隊の任務の禁止事項と、ポジとネガの関係にない、次元を異にする概念である。そもそも旧3要件をポジティブリストと呼ぶこと自体が、ネガティブリストとの関係を含めても、用語上、失当なのではないだろうか。

 要するに、立憲的改憲論にはポジティブリストの危険性があるという批判については、どこか国の官房長官風に言えば、「その批判はあたらない」ということになる。

 

旧3要件に規範力はあるのか?

 長谷部教授は、現行9条のもと、上述の旧3要件までは合憲であり、2014年7月1日の閣議決定を経た限定的集団的自衛権はその矩(のり)を踰(こ)えると主張されてきた。旧3要件がポジティブリストであり、拡大の危険性があるというのであれば、当該の旧3要件の評価はどうなるのだろうか。限定的集団的自衛権まで解釈で認めてしまったので、「やっぱり拡大解釈される歯止めのない規範ですね」とお認めになるのだろうか。

 また、現行9条のもと、“解釈のみ”で認められ、法律で融通無碍(むげ)にできた旧3要件と、自衛隊が「戦力」であることを真正面から認め、その自衛権の発動要件として憲法に書き込んだ旧3要件とを比較した場合、どちらが規範としてより明確か。合憲、違憲の基準としての太いラインを、裁判所、さらに国民に提供するか。

 少なくとも、旧3要件を憲法に明記した場合、「我が国」に対する攻撃がないにもかかわらず、他国への攻撃を理由に自衛権を行使する集団的自衛権は、明確に9条に反して違憲だと言いうるはずである。

 ここで見落としてはならないのは、9条は統治の規定だということである。

 日本国憲法は、おおまかにいって、前半部分が権利の「カタログ」を列挙した「人権」の規定、後半が国会・内閣・裁判所など統治機構の「取り扱い説明書」で構成されており、統治の規定は人権の規定に比して、解釈の余地がより狭く規定されている。

 9条の規定は、人権の規定の前に位置し、それよりもさらに詩的で抽象的な規範であると思われがちだ。だが、それは違う。

 第三章「国民の権利及び義務」という人権カタログの前に存在する条文群は、天皇から政治的権能を奪い(一章)、この国の法体系から、軍事に関する規定を“カテゴリカルに消去”した(二章)敗戦の記憶を埋め込んだ装置である。

 現行9条は国家の軍事的な権能を明確に“ゼロ”とした、統治の規定らしい単純明快な規定だ。このような本来は解釈の余地を許さない規定の限界を突破したらどうなるか。当該条文は死文化し、改正手続によってその統制力を再起させる必要に迫られることになる。

 長谷部教授は、自民党が招致した参考人として、2015年6月4日の衆議院憲法審査会において意見陳述を行っている。安保法制の違憲性を尋ねられ、「従来の政府見解の基本的な論理の枠内では説明がつきませんし、法的な安定性を大きく揺るがすものである」として、違憲だと発言されている。つまり〝法的安定性〟をもって、憲法違反という立論の軸としている。

 しかし、文言からは読みとり難い、難解な解釈の長年の集積による法的安定性と、条文による内容の明確化では、どちらが法的安定性に資するかは明らかである。

 自衛権発動に関する明確なラインを規定することによって、国民の意思で国家最大の暴力たる軍事に関する判断基準を提供し、真の法的安定性を獲得すべきではないだろうか。

「相手に土俵に乗るな」でいいのか

憲法改正を求める集会で「2020年には新しい憲法を施行」とビデオで表明する安倍晋三首相=2017年5月3日、東京都千代田区平河町 憲法改正を求める集会で「2020年には新しい憲法を施行」とビデオで表明する安倍晋三首相=2017年5月3日、東京都千代田区平河町 

 長谷部教授は、首相の解散権を制約する憲法改正の主張などにも言及されながら、最後にこのように苦言を呈する。

 「ただ、こうした憲法改正に現在の日本の与党が賛成するかというと、その見込みはきわめて小さいと思います。実現可能性のない改正提案をすることには、やはり意味はない。勝ち目があるわけでもないのに、のこのこ改憲の土俵に上がっていくのは、おっちょこちょいがすぎる、ということになるでしょう」

 筆者は、現行9条下での安保法制制定に反対し、2015年、憲法9条の規範力を信じて微力ながら自分のできる限りを尽くした。しかし、負けた。もうこの国の憲法には内閣の横暴を止める力はないのかと、このときに強く感じ、少なくとも安保法制を通すようなライオン(権力者)をコントロールできるような檻(憲法)の設計(楾大樹著『檻の中のライオン』)が必要だと痛感した。

  安保法制が違憲だとしても、これを是正する方法は、究極的には政権交代か憲法改正しかない。つまり、政権交代して安保法制の違憲部分をすべて廃案にする(ための法案を可決させる)か、憲法を改正して2014年7月1日以前の旧三要件を憲法上明記し(憲法裁判所を設置し権力側の憲法違反を具体的事件とは関係なく抽象的に審査し是正する仕組みも必要)、安保法制に違憲の判決を下すしか、是正する方法はない(もちろん、現行の最高裁判所でも個人の権利侵害として構成すれば違憲審査による違憲判決は可能だが、「統治行為」による判断回避はもちろん、憲法判断への構造的な消極性からすると、期待できない)。

 仮に政権交代した場合を考えてみよう。この場合でも、安保法制を廃案にするか否かは確実ではないし(「公約」に対する政治家の意識の低さを見よ)、廃案にしたところで、権力者次第で復活させることもできる。

 しかし、憲法による統制は違う。違憲合憲の判断基準を明確に提示すれば、時の多数派に関係なく、どの政権も守らざるを得ないルールの設置が可能であり、政権の暴走にも純法理論的に違憲の裁定を下すことができる。

 憲法改正による統制(是正)こそ、本来なら最も実現可能性が高く、目指すべき方向性といえる。

 

護憲ではマーケティングにならない 

 現在、自民党の支持率が40%前後なのに対して、野党は第1党の立憲民主党が5%前後、国民民主党は1%と大きな格差がある。しかし、「支持政党なし」という人びとは40%以上存在し、ここに訴求すれば逆転は可能であるし、それしか勝機はない。

 発足時に13%程度あった立憲民主党の支持率がここまで低下しているのは、明らかにマーケティング戦略を誤っているからだ。声の大きい「支持者」という名の“上顧客”だけを見て蛸壺(たこつぼ)化している。憲法問題についても、政権交代においても、この層へのマーケティングなしには戦えないことは、数字上ほぼ間違いない。

 阪神ファンに、「巨人て素晴らしいよ、巨人ファンにならない?」という提案をするのは愚かだとは誰もが分かるだろう。同じように、改憲を「是」と考える人びとに「護憲」の価値を説いても、支持は広がらない。私が日々、様々な人たちと意見を交換しながら感じる肌感覚としては、日本国民の中にあって「個別的自衛権を専守防衛の範囲内で行使する自衛隊は認める」というコンセンサスは、かなり広がっているように思える。そして、その「一線」が越えられてしまった今、一線を守るために改憲論議をすること自体に賛成する人は多いはずである。

 改憲を漠然と「是」と考えている人びとに対しては、護憲ではマーケティングにならない。より良い改憲提案が存在すること。その観点からすると、安倍提案はまったくお粗末な内容であることという発信でリーチできる層が間違いなく存在するし、その層へのリーチなくして、安倍改憲は止められない。

 じっとしていて、もし止まると思っているのなら、それはおっちょこちょいどころではなく、空想主義的である。同じ立場・価値観のみのエコー・チェンバーは、やがて多様な意見の参入を許さない小部屋になってしまうかもしれない。

 この点に関し、コロンビア大学歴史学部のマーク・リラ教授が大変興味深い指摘をしている=『リベラル再生宣言』(駒村圭吾[解説]夏目大[訳]早川書房) 原題“The Once and Future Liberal After Identity Politics”=。次回は、リラ教授が発する警鐘から話を続ける。(続く)

次回は17日に「公開」予定です。