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「リベラル再生宣言」の衝撃

安倍改憲は阻止したいけど立憲的改憲論には批判的な人たちへ(中)

倉持麟太郎 弁護士(弁護士法人Next代表)

ホワイトハウスのローズガーデンで演説をするトランプ米大統領。トランプはリベラルの最大の問題ではないとはどういうことか?=2018年10月1日、ワシントンホワイトハウスのローズガーデンで演説をするトランプ米大統領。トランプはリベラルの最大の問題ではないとはどういうことか?=2018年10月1日、ワシントン

トランプ大統領は保守とリベラルに勝利した

 「立憲的改憲論に批判的な人たちへ」に引き続き、立憲的改憲論について論じる。

 このほど、コロンビア大学歴史学部のマーク・リラ教授が興味深い本を出した。『リベラル再生宣言』(駒村圭吾[解説]夏目大[訳]早川書房)である。この中でリラ教授は以下のような示唆に富む指摘をしている。

 教授は「私は現状に不満を持つアメリカのリベラルの1人としてこの文章を書いている」と前置きし、「リベラルはもはや第三の政治勢力にまで地位を低下させてしまったと言えるだろう。今では保守、そして保守でもリベラルでもないと自ら宣言した人々が二大勢力であり、その下ということになる。……率直に言えば、ドナルド・トランプという人物はリベラルにとって最大の問題というわけではない。彼の向こうにあるものを見ようとしなければ、この先、希望はほとんどないだろう」

 トランプの名を安倍晋三首相に変換すれば、そのまま我が国のこととして理解できる。トランプ(安倍首相)は保守にもリベラルにも勝利したのだ、という指摘は、少し敏感な感覚を持っていれば合点がいくだろう。

 また、「アメリカ国民が自分たちに対しどのようなイメージを抱くか、ということを考えるのをリベラルは放棄してしまっているのだ。」とし、その象徴として共和党と民主党の党ホームページの例を挙げる。

 共和党は「アメリカ刷新の指針」と題し、アメリカが直面する11の政治課題についての党の考え方を明らかにしている。一方で、民主党のHPにはその種の文書が見当たらず、サイトの最下方にはられた、女性、ヒスパニック、少数民族、LGBTなど、あるアイデンティティーを共有する集団に向けて作られた専用ページに飛ぶ仕組みとなっており、各ページごとに発せられているメッセージは異なる。これらを教授は「アメリカの二大政党の一つがアメリカの将来はこうあるべきというビジョンを示す場にはなっていない」と指摘する。

ビジョンの提示から逃げるリベラル

 そして、リラ教授はリベラル内部での分断の病原として、“アイデンティティーポリティクス(IP)”を挙げる。IPは、市民としての連帯よりも、自己の個人的なアイデンティティーを深く知ることによって、自己の属する集団の権利を主張する根拠を与えた。これによって、女性団体やLGBT団体の権利獲得といった成果を得た。

 一方で、アイデンティティーはまさに個人的な内面の問題であり、外の広い世界との結びつきには背を向ける契機を与える。自己の承認欲求の発散と政治的な闘争が結びつくと、自己と違う他者を包摂する寛容よりも、自己と他者との違いを強調することになる。アイデンティティーは、自己と他者、さらに言えば、連帯できるはずのそれぞれの属性や立場の人びとの間との「差異」を決定的にする線引きや基準まで与えてしまうのである。

 行き過ぎたアイデンティティーは、いわば自分で自由にブランディングできるフェイスブックのアカウントのようなものになり、他者との連帯はせいぜいお互いに「いいね」を付け合う程度の連帯である。本来、「市民」は「個人の持つ属性とは無関係に、絶えず政治社会を構成する他のすべての市民と結びついて」おり、「社会における権利を持ち、同時に義務を負っている」が、「フェイスブックにおいては、自分の承認した人々とだけ結びつくことになるし、その人との結びつきは、民主主義社会における他人との政治的な関係とは違っている。」

 この指摘は、筆者も含めて耳が痛い人はたくさんいるのではないだろうか。

 そして、リラ教授は、アメリカにおけるリベラル勢力の政治行動について言及する。

 「リベラルがトランプに抵抗すべくまとまりを見せているのは喜ばしい」としつつも、これらは「単にトランプの言動に対する自然の反応」でしかなく、「長期的な展望のある抵抗運動にまではなって」おらず、「ただトランプの言うこと、することに反対するだけでは、それは政治とは言えない」とする。トランプの態度は真の保守主義ともかけ離れたものであり、真に重要なのは「トランプのその先を見据えることだ」と言う。

 リベラル勢力は、一見点数を稼ぎやすい「わかりやすい成果の出る課題」に没頭し、「エネルギーを分散させてしまって」いる。「それで成果が上がっても、有権者の大半はそれに無関心なので、選挙の勝利には結びつかない」のだ。重要なのはどのような属性でも、市民として連帯できる「ビジョン」を提示することなのに、あえて「そういうビジョンを提示せざるを得ない状況に身を置かなくて済むように動いてしまっている。思考も言葉も行動も、ビジョンの提示から逃げるようなものになっている」と指摘する。

勝ち目のないリベラル勢力の戦略

自衛隊の憲法への明記などを呼びかけた改憲団体のフォーラム=2018年5月3日、熊本市 自衛隊の憲法への明記などを呼びかけた改憲団体のフォーラム=2018年5月3日、熊本市

 考えてみれば、これは現在の日本の野党及びリベラル勢力の状態そのものである。特に、安全保障や権力のあり方などの大きな“ビジョン”を論じようとする際の、野党及びリベラル勢力の憲法への態度に、リラ教授の指摘はそのままあてはまる。

 彼らは憲法論議については、議論もせず、ビジョンを提示せざるを得ない状況にもかかわらず、そこから逃げ続けている。その際のエクスキューズは、「安倍政権では改憲論議に応じない」であり、「現行憲法が対案」という“標語”である。“対案”をうんぬんする以前に、リベラル勢力自身が、ビジョンとしての改憲議論をすること自体は、本来、非難すべきものではないのではないか。

 ことは憲法論議に限らない。現在、我が国の野党及びリベラル勢力が抱える問題そのものである。すなわち、「自分自身が属する集団にばかり目を向けて他を顧みないことが、アイデンティティ・リベラリズムの大きな問題」であり、「通常の民主政治では、自分と似ていない人たちと関わり、彼らを説得する、という作業がどうしても必要になる」が、「アイデンティティ・リベラリズムに走る人々は、それを避けて一段高いところから無知な人たちに向かって説教することを好む」という点である。

 現在我が国ではリベラルを名乗る人びとが、それこそフェイスブックの「お友達限定」で、自身と異なるリベラルな思想を蔑むような投稿をしている社会だ。

 このことをリラ教授は、リベラルは「一切、話し合おうとせず、自分に反対する者がいれば、皆、道義をわきまえない怪物のようにみなす。決して、ただ考え方が異なるだけの同じ市民だとは考えない、リベラルはそういう人種に見られるようになったのだ」と言う。そのうえで、「民主党は高いところにいてただ説教をするだけだ、自分たち共和党こそ真に民衆の代表である、と主張する根拠を与え」、「実際、多くの国民は共和党の主張どおりのイメージを抱くようになった。」とし、「右派からこの国を奪い返したいと願うのであれば、自分が大切に思う人々のためになる永続的な変化をもたらしたいと望むのなら、今すぐに説教壇から下りてこなくてはいけない」と指摘する。

 先のマーケティング戦略とも相まって、ただでさえバラバラな現代社会の個人をさらに分断し、自分と違う意見やまだ見ぬ支持者も、リラ教授のいう連帯のために個々人の蛸壺(たこつぼ)的アイデンティティを捨象した「市民」概念をも信じることなく、そういう人たちを排斥する戦略は、自己表現や自己保存としては首肯する部分があったとしても、政治戦略としては明らかにリベラルな戦略ではないし、勝てる戦略でもない。

「話せば分かる」を捨てると民主主義は終わる

護憲のメッセージを掲げる護憲団体のメンバーら=2018年5月3日、東京都護憲のメッセージを掲げる護憲団体のメンバーら=2018年5月3日、東京都

 「立憲的改憲論に批判的な人たちへ」で、長谷部恭男教授が立憲的改憲論について「こうした憲法改正に現在の日本の与党が賛成するかというと、その見込みはきわめて小さいと思います。実現可能性のない改正提案をすることには、やはり意味はない。勝ち目があるわけでもないのに、のこのこ改憲の土俵に上がっていくのは、おっちょこちょいがすぎる、ということになるでしょう」と述べた、と書いた。

 改憲に乗る人はおっちょこちょいだが、護憲派は思慮深い、というのも、その逆も違うと私は考える。皆、相当に思慮深いし、相当に思慮深くない。人間なんてそんなものである。

 9条と自衛隊の課題と選択肢については、話せば必ずわかる。なぜなら、それが人々の肌感覚とかなり近いからだし、それが理解できる人びとだと信じているからだ。なによりも、「話せばわかる」という感性を捨てたときに、この国の民主主義は、終わる。

 上述のリラ教授の言葉を借りれば、高所から見下すことで自陣を守ることも、自身が属する集団の偏狭なアイデンティティーに固執することも、憲法論議においてはやめるべきである。憲法論議こそが、人びとの“連帯”を醸成する場として機能しなくてはならないと考えるからだ。

 「勝ち目がない」という点については、では、果たして長谷部教授には勝ち目のある提案があるのだろうか。是非、どうしたら勝てるかの戦略をご教示いただきたい。その戦略と、立憲的改憲論の戦略(あるいはさらに複数の戦略たち)を膝を突き合わせて吟味し、より良い戦略を見つけたい。

 リラ教授の指摘するように、政治とは合意の調達であり、自己表現ではない。自己の主張のために他者との差異を強調するのではなく、より寛容になり一致点を探るべきである。リラ教授も筆者も、アイデンティティーを放棄せよとは言っていない。むしろ、個々人の属性を「むしりとって」連帯すべき闘いが目の前にあるのではないかと主張したいのだ(この点は、現政権下での改憲論議に慎重な駒村圭吾教授が本書の解説でリベラルが抱える問題点に関して言及されていて、興味深い)。

試合をしないことのおかしさ

 10月2日、「全員野球内閣」と首相が呼ぶ第4次安倍改造政権が発足した。「今、安倍政権下で改憲論を言うのは間違っている」というのは、闘う前から、「このグラウンドはマウンドの距離がおかしい」「芝生の長さが違う」「ピッチャーが野球の本質を理解していない」ということを指摘して、試合をしないと言っているのと同じだ。指摘は指摘としてすればよいが、では、このルールでプレイボールしてしまい、誰も打席に立たないまま、どんどん球が投げ込まれて、このルールの中で負けてしまったときどうするのか。そのままゲームセットして負けたら、もう巻き戻せない。

 ルール上の非難はしつつも、打席に立って打ち返すべきだ。少なくともルールの批判をする人と打ち返す人がいても良いはずである。野球の本質をわかっていないピッチャーの嘘にまみれたボールをスタンドまで打ち返し、猛打によってマウンドから引きずりおろせばよい。そのために、日々トレーニングをしているのが、政治ないし法律のプロではないのか。プロフェッショナルの矜持(きょうじ)が問われている。

「法の支配」より「人の支配」?

新憲法制定議員同盟で あいさつをする安倍晋三首相。左は憲法改正を一貫して唱えてきた中曽根康弘元首相=2017年5月1日、東京・永田町新憲法制定議員同盟で あいさつをする安倍晋三首相。左は憲法改正を一貫して唱えてきた中曽根康弘元首相=2017年5月1日、東京・永田町

 学習院大学の青井美帆教授も、立憲的改憲論を厳しく批判する。

 主張の概要は以下である(以下『改憲の論点』集英社新書46ページ以下)。

 「憲法は国家を縛る法であり、実力の統制に深く関わっていますが、憲法だけで統制できるものではありません。統制が実質的に確保されるかどうかは、政治の力量にかかっています。新9条論は、憲法の条文に責を負わせることで、この問題を棚上げする役回りを果たしてしまう恐れがあります」

 「新しい九条を作れば政治がそれに従うというものではありません。憲法の条文を新しくしたところで、実力の統制ができるくらいに成熟した政治がなければ、意味がない。そういう政治を作ることが、まず私たちが解決を目指さなければならない問題でしょうか。政治に力量がなく、実力の統制を真剣に考えていないなかで、あるべき九条論を考えるというのは、力のかけどころを間違っているように思われてなりません」

 立憲的改憲の、自衛権等について条文で明確に統制すべきとの主張に対しては、「しかし、問題は形式よりも実質です。憲法に書き込むことよりも、文民統制の任務を誰がどう負っているか、きちんと責任が政治家に理解されているかが重要です」

「この問題は、憲法改正によってどうこうできるという事柄ではなく、国会や文民政治家の意識や姿勢の問題です」

 そのうえで青井教授が最終的に帰着するのは、個々の政治家が文民統制を理解しているかなどの、政治家個人の「意識」や「姿勢」の問題である。

 これは、どのようなシステムかということではなく、「どのような人物が政治家をしているか」という、政治家の内心に焦点をあて最優先事項とするものであり、究極的に言えば、「大事な概念を理解している政治家が政治をしているか」どうかによって政治の帰趨(きすう)を判断するものであるから、どのような人間が統治者になったとしてもそれを統制できるという「法の支配」ではなく、まさに、誰によって統治されるかに主眼がおかれた「人の支配」にコミットするものである。私としては、与(くみ)することができない。

 仮に人の支配に与するものだとして、文民統制や責任の本質を理解していない政治家にそれを理解させる術はあるのであろうか。その手段を是非知りたい。もしあったとしても、それは、人間の内心に立ち入るものであり、法の支配の観点からも、リベラリズムの観点からも、およそ受容できるものではない。

 最後に青井教授はこう指摘する。

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