「リベラル再生宣言」の衝撃
安倍改憲は阻止したいけど立憲的改憲論には批判的な人たちへ(中)
倉持麟太郎 弁護士(弁護士法人Next代表)
ビジョンの提示から逃げるリベラル
そして、リラ教授はリベラル内部での分断の病原として、“アイデンティティーポリティクス(IP)”を挙げる。IPは、市民としての連帯よりも、自己の個人的なアイデンティティーを深く知ることによって、自己の属する集団の権利を主張する根拠を与えた。これによって、女性団体やLGBT団体の権利獲得といった成果を得た。
一方で、アイデンティティーはまさに個人的な内面の問題であり、外の広い世界との結びつきには背を向ける契機を与える。自己の承認欲求の発散と政治的な闘争が結びつくと、自己と違う他者を包摂する寛容よりも、自己と他者との違いを強調することになる。アイデンティティーは、自己と他者、さらに言えば、連帯できるはずのそれぞれの属性や立場の人びとの間との「差異」を決定的にする線引きや基準まで与えてしまうのである。
行き過ぎたアイデンティティーは、いわば自分で自由にブランディングできるフェイスブックのアカウントのようなものになり、他者との連帯はせいぜいお互いに「いいね」を付け合う程度の連帯である。本来、「市民」は「個人の持つ属性とは無関係に、絶えず政治社会を構成する他のすべての市民と結びついて」おり、「社会における権利を持ち、同時に義務を負っている」が、「フェイスブックにおいては、自分の承認した人々とだけ結びつくことになるし、その人との結びつきは、民主主義社会における他人との政治的な関係とは違っている。」
この指摘は、筆者も含めて耳が痛い人はたくさんいるのではないだろうか。
そして、リラ教授は、アメリカにおけるリベラル勢力の政治行動について言及する。
「リベラルがトランプに抵抗すべくまとまりを見せているのは喜ばしい」としつつも、これらは「単にトランプの言動に対する自然の反応」でしかなく、「長期的な展望のある抵抗運動にまではなって」おらず、「ただトランプの言うこと、することに反対するだけでは、それは政治とは言えない」とする。トランプの態度は真の保守主義ともかけ離れたものであり、真に重要なのは「トランプのその先を見据えることだ」と言う。
リベラル勢力は、一見点数を稼ぎやすい「わかりやすい成果の出る課題」に没頭し、「エネルギーを分散させてしまって」いる。「それで成果が上がっても、有権者の大半はそれに無関心なので、選挙の勝利には結びつかない」のだ。重要なのはどのような属性でも、市民として連帯できる「ビジョン」を提示することなのに、あえて「そういうビジョンを提示せざるを得ない状況に身を置かなくて済むように動いてしまっている。思考も言葉も行動も、ビジョンの提示から逃げるようなものになっている」と指摘する。
勝ち目のないリベラル勢力の戦略

自衛隊の憲法への明記などを呼びかけた改憲団体のフォーラム=2018年5月3日、熊本市
考えてみれば、これは現在の日本の野党及びリベラル勢力の状態そのものである。特に、安全保障や権力のあり方などの大きな“ビジョン”を論じようとする際の、野党及びリベラル勢力の憲法への態度に、リラ教授の指摘はそのままあてはまる。
彼らは憲法論議については、議論もせず、ビジョンを提示せざるを得ない状況にもかかわらず、そこから逃げ続けている。その際のエクスキューズは、「安倍政権では改憲論議に応じない」であり、「現行憲法が対案」という“標語”である。“対案”をうんぬんする以前に、リベラル勢力自身が、ビジョンとしての改憲議論をすること自体は、本来、非難すべきものではないのではないか。
ことは憲法論議に限らない。現在、我が国の野党及びリベラル勢力が抱える問題そのものである。すなわち、「自分自身が属する集団にばかり目を向けて他を顧みないことが、アイデンティティ・リベラリズムの大きな問題」であり、「通常の民主政治では、自分と似ていない人たちと関わり、彼らを説得する、という作業がどうしても必要になる」が、「アイデンティティ・リベラリズムに走る人々は、それを避けて一段高いところから無知な人たちに向かって説教することを好む」という点である。
現在我が国ではリベラルを名乗る人びとが、それこそフェイスブックの「お友達限定」で、自身と異なるリベラルな思想を蔑むような投稿をしている社会だ。
このことをリラ教授は、リベラルは「一切、話し合おうとせず、自分に反対する者がいれば、皆、道義をわきまえない怪物のようにみなす。決して、ただ考え方が異なるだけの同じ市民だとは考えない、リベラルはそういう人種に見られるようになったのだ」と言う。そのうえで、「民主党は高いところにいてただ説教をするだけだ、自分たち共和党こそ真に民衆の代表である、と主張する根拠を与え」、「実際、多くの国民は共和党の主張どおりのイメージを抱くようになった。」とし、「右派からこの国を奪い返したいと願うのであれば、自分が大切に思う人々のためになる永続的な変化をもたらしたいと望むのなら、今すぐに説教壇から下りてこなくてはいけない」と指摘する。
先のマーケティング戦略とも相まって、ただでさえバラバラな現代社会の個人をさらに分断し、自分と違う意見やまだ見ぬ支持者も、リラ教授のいう連帯のために個々人の蛸壺(たこつぼ)的アイデンティティを捨象した「市民」概念をも信じることなく、そういう人たちを排斥する戦略は、自己表現や自己保存としては首肯する部分があったとしても、政治戦略としては明らかにリベラルな戦略ではないし、勝てる戦略でもない。