安倍改憲は阻止したいけど立憲的改憲論には批判的な人たちへ(下)
2018年10月19日
「立憲的改憲論に批判的な人たちへ」、「リベラル再生宣言」で、立憲的改憲論のコンセプトやそれへの批判的言説について論じた。「安倍改憲は阻止したいけど立憲的改憲論には批判的な人たちへ」の最終回では、立憲的改憲論の一番の標的である「安倍改憲」の問題点について、あらためて整理する。
今年の3月22日、自民党憲法改正推進本部長細田博之会長(当時)一任というかたちで、自民党の憲法改正案の素案がまとめられた。それによれば、9条の条文案は以下である。
第9条の2
我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを目的として、法律の定めるところにより、内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する。
②自衛隊の行動は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。
この、自民党改憲案の「キモ」は、「自衛隊を書くだけで何も変わらない」と言いながら、そうはなっていない点である。すなわち、この案では、「必要な自衛の措置」をとることができる自衛隊の保持を認めているが、“自衛隊に何ができるか”は書いていない。そのため、自民党案における自衛隊は、憲法上、無制約である。
これを読み解くキーワードが、太字で記した「必要な自衛の措置」である。このワードは、戦後リーガルタームとして、「ある場面」で用いられてきた歴史がある。それは、どんな場面で、そしてどんな歴史なのだろうか。簡単に論じたい。
安保法制の根拠として、安倍晋三政権が歪曲(わいきょく)して用いたことで、一躍国民にも有名になった「砂川事件判決」という最高裁判例が存在する(この判決の正当性についての議論は、本稿では省力する)。在日米軍の違憲性が争われた判決だが、ここに、「必要な自衛の措置」が登場する。
どんな文脈か。以下に判決を引用したい。
砂川事件判決(昭和34年(1959年)12月16日・最高裁大法廷判決)
「一、先ず憲法九条二項前段の規定の意義につき判断する。……。…同条は、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているのであるが、しかしもちろんこれによりわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである。……。しからば、わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない。すなわち、われら日本国民は、憲法九条二項により、同条項にいわゆる戦力は保持しないけれども、これによつて生ずるわが国の防衛力の不足は、これを憲法前文にいわゆる平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼することによつて補ない、もつてわれらの安全と生存を保持しようと決意したのである。そしてそれは、必ずしも原判決のいうように、国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等に限定されたものではなく、わが国の平和と安全を維持するための安全保障であれば、その目的を達するにふさわしい方式又は手段である限り、国際情勢の実情に即応して適当と認められるものを選ぶことができることはもとよりであつて、憲法九条は、わが国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではないのである」
次に、これまた安保法制のときに一躍有名になった、「昭和47年見解」を引用する。2014年7月に安倍政権によって変更されるまで、我が国の自衛権行使の旧3要件を含めた「制限された個別的自衛権」を導き出す柱となった、政府見解である。
ところで、政府は、従来から一貫して、わが国は国際法上いわゆる集団的自衛権を有しているとしても、国権の発動としてこれを行使することは、憲法の容認する自衛の措置の限界をこえるものであって許されないとの立場にたっているが、これは次のような考え方に基づくものである。
憲法は、第9条において、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているが、前文において「全世界の国民が……平和のうちに生存する権利を有する」ことを確認し、また、第13条において「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、……国政の上で、最大の尊重を必要とする」旨を定めていることからも、わが国がみずからの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことは明らかであって、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない。
しかしながら、だからといって、平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであって、それは、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものである。そうだとすれば、わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。
これら二つに共通する定式は、
①我が国は、憲法九条によって、戦争を放棄し、戦力不保持・交戦権の否認を規定しており、軍事に関する権能はゼロという建前になっている、
②しかし、(1)日本国憲法が前文で平和的生存権を規定している(2)日本国憲法13条が、生命自由幸福追求の権利を国政の上で最大限の尊重を要請している、
がゆえに、我が国がみずからの存立を全うし、国民が平和のうちに生存することまでも放棄していない(坐して死を待たず!)。だから、「必要な自衛の措置」はとることができるというものである。
ここでも、9条の禁止を解除した結果登場するのが、「必要な自衛の措置」である。
換言すれば、9条は軍事に関する権能をゼロに見積もっているが、前文の平和的生存権及び憲法13条によって、その9条の縛りに穴を開けている。座して死を待たないための措置を可能にするキーワードが、「必要な自衛の措置」なのである。
だが、上記の昭和47年見解では、9条に「必要な自衛の措置」で穴を開け、自衛のためにとれる権能として無限の地平を描くと思いきや、ここから、一気にその絞り込みに入る。
すなわち、「だからといって、平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであって、それは、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものである。」という部分である。
9条に、周辺条文によって穴を開け、「必要な自衛の措置」というキーワードで無限の地平を広げた後に、「だからといって……自衛の措置を無制限に認めているとは解されない」という留保のもとに、いわゆる旧3要件を繰り出し、急激な絞り込みを行うのである。
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