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人間としての官僚論

佐藤信 東京都立大学法学部准教授(現代日本政治担当)

セクハラ発言問題で辞任、頭をさげる福田淳一財務事務次官=2018年4月18日,
東京・霞が関の財務省セクハラ発言問題で辞任、頭をさげる福田淳一財務事務次官=2018年4月18日, 東京・霞が関の財務省

官僚不信が加速

 昨今の日本では、官僚不信を加速させるような事態が立て続けに起きている。2016年に発覚した文科省の天下り問題、同年からの自衛隊日報問題、昨年の森友問題ととりわけ財務省による公文書改ざん、今年2月の裁量労働制導入をめぐる厚労省の不適切データ問題、4月の福田淳一財務省事務次官(当時)のセクハラ発言、8月の障害者雇用の水増し問題と枚挙にいとまがない。これで国民はどうして、行政が信頼できるだろうか。

 その後の対応にも疑問が残る。たとえば障害者雇用の水増し問題では、事態が明らかになると加藤勝信厚労相(当時)がすぐさま「雇用率今年中に達成を」と呼び掛け、現在も今年度中の目標達成が目指されている。しかし、こういった対策は果たして本質的なものと言えるだろうか。

 公的機関が民間企業より高い障害者雇用の水準を求められているのは、障害者の働きやすい雇用環境を率先してつくりだすためである。そうした環境は構築できていないのに今年中や今年度中などと拙速に蓋を閉めようとするのは、本来の目的に数値目標が先行していることの現れではないか。本質ではなく「やった感じ」ないし「数合わせ」が追求されているのである。

あらゆる辻褄あわせができる人種

 そしてまた、日本の官僚は、そういったことには極めて優れた人たちなのである。キャリア官僚の多くは、いまでも東大法学部出身である。そして東大法学部の学生の多くは――わたしもその出身なのでよくわかるが――、単に頭脳的に優れているだけではなく、出題者から求められている回答を出すことに最適化された人種である。

 法律や行政の知識を豊富に持つ彼/彼女たちの手にかかれば、あらゆる辻褄(つじつま)あわせができてしまう。公文書管理については、様々な不祥事を受けて、罰則強化や電子決裁拡大などの再発防止策が閣僚会議で決定されており、野党は公文書管理法に罰則を設ける案を提案している。しかし、公文書を私的メモと位置づけたり、そもそも議事録をつくらなかったり――これはすでに起きている――、抜け穴はいくらでもつくられてしまう。

 実際、財務省の「応接録」が今回問題になったのは、削除ミスで共有ファイルに電子ファイルが残っていたからである。ミスなく完璧な隠ぺい工作を行っていれば、不正の露見も改ざんの証拠もなかったのである。

インセンティブの付与が重要だが……

 官僚には、自らの恥を晒(さら)すという選択もあるが、より完璧に隠すという選択もある。そこで官僚を縛り上げ、数値目標などの達成を押し付けることは、果たして効果的だろうか。むしろ重要なのは、彼/彼女たちにどれだけ「良き官僚」たるインセンティブを与えるかではないか。

 いかなる官僚も、それぞれの時点で、それぞれの死力を尽くして、よりよい統治を目指そうとする。それぞれの省庁の省益を追求しているように見える場合でもそうである。だから、本来は各個の政策過程の軌跡を後輩に残そうとするし、将来的に研究者や国民から評価されたいと思う。規則の厳格化や数値目標の設定もムダではないが、それらを活かすマインドセットをつくることは、同じくらい、いやそれ以上に大事なことである。いま忘れ去られていることは、官僚が「人間」だという基本的な事実なのではないか。

 ところが、与党の大臣たちは、官僚の首は差し出すけれど責任を採らず、野党の政治家たちは、合同ヒアリングなる非制度的な場で官僚の吊し上げを行い、メディアも国民も官僚を目の敵のように批判する。そこでは官僚たちが、まるで叩いても壊れない「歯車」のように扱われている。これで官僚はいかにしてモチベーションを保つのであろうか。

財務省による決裁文書改ざん問題の合同ヒアリングで、野党議員(左側)の質問に答える財務省の富山一成理財局次長(右側中央)ら=2018年3月14日、国会内財務省による決裁文書改ざん問題の合同ヒアリングで、野党議員(左側)の質問に答える財務省の富山一成理財局次長(右側中央)ら=2018年3月14日、国会内

東大法学部生はなぜ、官僚になるのか

 そのくせ、不思議なことに、官僚に対する期待値はいまでも極めて高い。多くの国民は官僚バッシングをしながら、心の奥底では官僚は超優秀であり、基本的に党派に拘わらず誠意をもって業務に当たっていると信じている。だからこそ、福田元財務次官がセクハラ問題に際して「高級官僚にも拘わらず」とか「公務員にも拘わらず」と批判されたように、官僚には高い能力や道徳水準を求めるダブル・スタンダードを適用するのである。

 事実、日本のキャリア官僚は「優秀」である。彼/彼女たちの中心的な母体はなんといっても東大法学部だ。筆者も在学中、官僚の卵たちを近くで見てきた。

 東大法学部生たちがすべからく有能とは言えないが、常人より体力と精力をデスクワークに注ぎ込むことに長(た)け、日本国内では有数の法律知識を蓄積した人材の宝庫であることは間違いない。そんな有能な若者たちが、進路に迷った末に、学生によってはわずか数カ月の準備で超難関と言われる国家公務員Ⅰ種試験(国Ⅰ)に合格してキャリア官僚になる。

 とはいえ、そんな優秀な文系学生が官僚になるのは、必然ではない。国Ⅰに合格できる学生なら、いろんな将来が開けているだろう。民間企業に就職すれば、儲けはよいだろうし、モテるだろう。働き方改革の本拠地たる厚生労働省でさえ「強制労働省」と揶揄(やゆ)されるような長時間労働を、あえてするようなこともないだろう。実際、今は外資系コンサルなどの方がよほど人気である。

 なのに、なぜ官僚を目指すのか? そこに、雇用の安定と、国家統治に関わることへの使命感があるのは疑い得ない。

自分たちは「歯車」ではない

 国家統治に関わるなら、なぜ、政治家を目指さないのかという疑問もあるかもしれない。たとえばアメリカであれば、アイヴィーリーグを出て国家統治に関わろうとする者は、連邦官僚より政治家を目指す。最近の歴代大統領を見ても、1989年に退任したレーガンから2017年に就任したトランプまで、ブッシュ(父)、クリントン、ブッシュ(子)、オバマと、いずれもイェール大学やハーヴァード大学や、そのロースクールの出身者たちであるが、官僚の経験はない。

 ところが、日本では東大法学部を出て、そのまま政策秘書などを経験して政治家になる者は極めて少ない。試みに2017年衆院選で当選した議員の出自を調べると、東大法学部を卒業した者は61人いるが、卒業後ほどなく議員秘書として働いたり、松下政経塾に入塾したりして直接に政治家を目指した者は4人に過ぎない。他方、東大法学部を出て、官僚を経て政治家になった者は42人もいる。

 知事をみても、全国47都道府県の知事のうち実に29名は官僚(自衛隊を含む)経験者であり、将来的に政治家を目指すとしても、国家統治に関わるならまずは官僚になるというのが、東大法学部生をはじめとするエリートの思考回路であるらしい。

 なぜ、彼/彼女たちは過酷な雇用環境で、国家統治の「歯車」になることを選ぶのか。それは実のところ、自分たちを単なる「歯車」だとは考えていないからに他ならない。

 東大法学部には各省庁の人事担当者が出入りして、リクルートに精を出す。そのときの誘い文句が、「本当に国政を支えるのは我々官僚だ」といった言葉であり、多くの官僚たちはその想いに支えられて働いている。ある若手官僚は筆者に、「歯車」として動くべきだというヴェーバーにおける官僚の理念型と、政策決定の本質を担っている実際とのあいだに、葛藤があることを明かしてくれた。ヴェーバー云々というのは、さすが東大法学部出身らしい彼自身の言葉をそのまま用いたのだが、要は次の一文に表現されるような近代官僚制における官僚の理念型を指す。

「上司が自分の命令を固執して譲らないならば、下僚としては、あたかもその指令が自分の本来の信念と一致しているかのようにそれを遂行し、そうすることによって職務にたいする義務感が自分の信念よりも重要であることを示すのが、官僚の義務であるばかりか官僚の名誉でもある」(マックス・ヴェーバー「新秩序ドイツの議会と政府」(1918年))

 このように「歯車」であることが「名誉」とは知りつつ、実態としては「政治アクター」である、そんな官僚に支えられて国家統治は、私たちの国家は、作動しているのである。

東京大学の赤門。東大からは毎年、多くの学生が官僚の世界に。東京大学の赤門。東大からは毎年、多くの学生が官僚の世界に。

官僚の現場で生じている変化

 しかし、実際の政治改革、行政改革では、往々にして、どこに政策アイデアや立法知識を持った人材がいるのかという現実が看過される。

 議員には十分な政策秘書がついているだろうか。アメリカのようにシンクタンクが充実しているのだろうか。衆議院・参議院の法制局が野党だけでなく与党の議員立法をもこなせるだけの量的規模を持っているだろうか。いずれも、心もとない。近い将来、官僚抜きで主要な政策立案や立法ができる見通しはないのである。

 にもかかわらず、政治主導の名のもと、官僚の作動領域は狭まり、評判は落ちる一方である。そんな状況が続けば、官僚組織にこれまで通りの優秀な人材を集められなくなるのは当然だろう。昨今、読売新聞の「インサイド財務省 人財編」や日経新聞の「政と官 細る人財」など、メディアでもこうした官僚の現場の変化が特集されている。

 25~39歳の行政職の離職者が2016年度に1685人にのぼり、キャリア官僚の試験申込者も17年度で前年比4%減、20年間で約4割減っている。東大法学部の「銀時計組」(首席卒業)は、官庁のなかの官庁たる大蔵省に入省するもの、という時代もあったが、現在はまったく当てはまらない。ここ最近の銀時計組で財務省に入省した一人は、いまは弁護士・タレントとして活動する山口真由氏だが、2006年入省の彼女も08年に退官している。

霞が関の魅力が薄れた背景

内閣人事局の発足式。(左から)加藤勝信内閣人事局長、稲田朋美内閣人事局担当大臣、安倍晋三首相、菅義偉官房長官=2014年5月30日内閣人事局の発足式。(左から)加藤勝信内閣人事局長、稲田朋美内閣人事局担当大臣、安倍晋三首相、菅義偉官房長官=2014年5月30日

 霞ヶ関に魅力が薄れてきたことには、さまざまな背景がある。

 第一には、すでに述べた通り、過酷な労働条件にもかかわらず、給与水準が十分に高くないからである。

 第二に、それでも「虚名」を求めるエリート学生たちを引き寄せてきた省庁のイメージの低下がある。なかでも安倍政権下で守勢に立たされ、醜聞が相次ぐ財務省の評判低下は著しく、一昔前なら大蔵省・財務省に入省していたであろう優秀な人材が他省庁に流れている。安倍政権で力を持つ経産省のほか、厚労省や内閣府など将来課題を担う省庁には、やり甲斐を求める優秀な人材が集っていると仄聞(そくぶん)する。

 第三に、入省してから魅力が色褪(あ)せる原因として、やはり内閣人事局の影響は見過ごせない。内閣の人事権を官邸に握られたことで、キャリア官僚は官邸の逆鱗(げきりん)に触れることを避けるようになっている。そのため、自由闊達(かったつ)な意見や、面白いアイデアの上申が難しくなっているという。この点については昨今多く指摘されており、本稿ではこれ以上深く触れない。

求められる国民からの理解

 優秀な官僚は平和に似ている。続いているうちに、それは当然に与えられるものように思っている。いくら邪険に扱っても、叩(たた)いても、官僚は常に優秀であり続けてくれる。

 しかし、それは幻想だ。

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