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森友小学校の教育理念とは何だったのか

永尾俊彦 ルポライター

開校できなかった瑞穂の國記念小學院(大阪府豊中市)。伊丹空港に着陸する飛行機がひっきりなしに上空を飛ぶ。もともとこの土地は1974年に騒音対策区域に指定され、国土交通省大阪航空局が買い入れて管理していた開校できなかった瑞穂の國記念小學院(大阪府豊中市)。伊丹空港に着陸する飛行機がひっきりなしに上空を飛ぶ。もともとこの土地は1974年に騒音対策区域に指定され、国土交通省大阪航空局が買い入れて管理していた=撮影・筆者

 安倍晋三首相(総裁)の3選が決まった先の自民党総裁選では、森友問題も論戦の焦点にはなったが、首相や昭恵夫人の関与の有無や公文書改ざんの責任論が中心だった。しかし、この問題の本質は、贈収賄などではなく、学校法人森友学園の教育理念、つまり籠池泰典理事長(当時)の思想に安倍首相ら多くの政治家が共鳴、その思想を体現した小学校建設のために行政が歪められた「思想事件」という点だ。だが、籠池氏の思想とそれが支持された社会的な背景についてはこれまでほとんど報道されていない。そこで、森友学園が構想していた小学校の教育とはどのようなものだったのか、また、その背景には何があったのかを改めて追った。その上で、同校の教育理念やカリキュラムの疑問点などについて籠池氏に直接聞いた(3回のシリーズで配信します/編集部)。

 「皇室を尊び、我国の皇祖皇宗から続く悠久の歴史と伝統文化に立脚し、知徳体の均衡のとれた教育により、国際的に通用する日本人を涵養することを目的とします」

 これが、学校法人森友学園が大阪府に提出した「瑞穂の國記念小學院(仮称)設置認可申請書」(2014年10月31日)に記載された「教育理念」だ(以下森友小)。

 何よりも天皇を大切にし、天皇家の始祖(皇祖)とそれ以降の歴代の天皇(皇宗)へと続く歴史と文化を立脚点にするとうたっている。籠池氏は、教育の根本は「天皇国日本」だと述べた(インタビューは後日掲載予定)。

 また、同小のパンフレットには、「学びの目的は、各人が最終的に国家有為の人材になることです」とある。つまり、森友小の目的は天皇国日本に貢献する人材の育成だ。

 これは、教育基本法が第1条(教育の目的)で規定する「人格の完成」とは正反対だ。文部科学省によれば、「人格の完成」とは、「個人の価値と尊厳との認識に基づき、人間の具えるあらゆる能力を、できる限り、しかも調和的に発展せしめること」(「教育基本法制定の要旨」昭和22[1947]年文部省訓令)である。平たく言えば、個人の持っている能力を全面的にバランスよく開花させるということだ。教育とは国家のためではなく、個人のためなのだ。個人の人格の完成が、結果として国家に貢献することにもなる。

現代の「臣下」を養成する教育理念

 森友小の「教育理念」には、「本学は皇室・神ながらの道に沿った教育勅語、ノブレスオブリージュ(筆者注・仏語で、身分の高い者はそれにともなう社会的責任と義務があるという倫理)の精神を尊重した小学校カリキュラムによって『豊かな人間力』と『確かな学力』をつけます」ともある。

 「神ながらの道」とは、「神の御心のままの道」という意味だが、明治時代に井上毅(こわし)法制局長官らが作成して明治天皇の名で公布された教育勅語を「神の御心に沿ったもの」と規定している。

 大日本帝国憲法公布(1989年)の翌90(明治23)年に公布された教育勅語は、中央集権国家体制を支える臣民を育成し、自由民権運動を抑えるために作成された。「勅語」とは、天皇の口頭での意思表示の意味で、全文は315文字と短く、内容は大きく3点だ。

① 歴代の天皇が道徳を形成し、臣下が天皇に尽くした忠誠が国柄の精髄で教育の基づくところでもあるということの宣言。
② 父母には孝行せよ、兄弟姉妹は仲良くし、夫婦はむつみあい、友達は信じあうよう、そして戦争になったら天皇家のために命を投げ出せ、など臣民の体得すべき12の徳目の提示。
③ この道は、間違いがないので自分(天皇)もこの道を臣民とともに守る。皆一致してこの道を体得実践することを望むという呼びかけ。

 だが、お茶の水女子大学基幹研究院人間科学系の米田俊彦教授(教育科学)は、かつての侵略戦争の大きな原因の一つとして、「自分を犠牲にしてでも『皇運扶翼』のために尽すという教育勅語の精神が日本人全体に行き渡っていたこと、そして日本人が、侵略や残虐な行為を繰り返してもそれを『道義』の実現としか考えられなかったこと」をあげる(教育史学会編『教育勅語の何が問題か』岩波ブックレット)。教育勅語によって、日本人は言わば「洗脳」されてしまったのである。

 だからこそ、1948年に衆議院で「排除」が決議され、参議院でも「失効」が確認されたのだ。

 しかし、その復活を願う政治家は多く、国会では繰り返し教育勅語が取り上げられてきた。日本教育学会の調査では、1947年の第1回国会から2017年の第193国会までのうち106の国会(約55%)で教育勅語についての発言があった(日本教育学会教育勅語問題ワーキンググループ編『教育勅語の教材使用問題に関する研究報告書』2017年12月)。実に、ほぼ2回に1回の割合だ。

 最近も、柴山昌彦文部科学大臣が10月2日の就任会見で、「教育勅語については、それが現代風に解釈をされたり、あるいはアレンジをした形でですね、今の例えば道徳等に使うことができる分野というのは、私は十分にあるという意味では普遍性を持っている部分が見て取れるのではないかというふうに思います」と述べた。

 そして、記者にどこが今も十分に使えるのかと問われ、「やはり同胞を大切にするですとか、あるいは国際的な協調を重んじるですとか、そういった基本的な記載内容」と答えている。

 昨年(2017年)の国会でも、森友問題を契機に教育勅語を学校現場で教材として使ってもいいのかが問題になり、稲田朋美防衛大臣(当時)が、「教育勅語の中の例えば親孝行とか、そういうことは、私は非常にいい面だと思います」と述べている(2017年2月23日、衆議院予算委員会第1分科会)。

 前掲報告書の執筆者の一人である小野雅章日本大学教授は、このような教育勅語の部分をとらえて普遍性があるとかいい面だとか評価するのは「間違いです」と批判する。

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