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優生思想と訣別を 劇団態変の闘い(後編)

ごく普通に、“赤の他人”として、障碍者を介護することが、社会の断絶をなくす

岩城あすか 情報誌「イマージュ」編集委員

拡大劇団態変の舞台「ニライカナイ」より=2017年3月、大阪梅田。中山和弘撮影

 「相模原障碍者大虐殺事件 劇団態変の闘い(前編)」では、神奈川県相模原市の障碍者施設で起きた大虐殺事件を題材とした、重度の身体障碍者だけでつくる劇団態変の舞台「ニライカナイ」(メイキング映像はこちら)を通じて、この事件の意味を考えた。後編では、劇団態変の主宰者・金満里さんの「優生思想との闘い」を紹介したい。

「介護」を通して培われるもの

 私は25年前(1993年)の大学1年のとき、友人から「介護入ってみない?人が足りへんねん」と誘われたのをきっかけに、24時間体制で介助を必要とする身体障碍者の付き添い介護をするようになった。そのときの介護の相手が、1983年に劇団態変を旗揚げしていた金満里さんだった。

 満里さんは日本で活躍した韓国の古典芸能の大家、金紅珠氏の末娘として生まれ、後継を期待されるも3歳でポリオに羅患、全身麻痺の重度の身体障碍者になった。

 7歳から17歳まで障碍者施設に預けられたが、その後施設を出て脳性マヒ者による障害者差別反対運動をおこなう「青い芝の会」に参加。21歳から現在に至るまで、家族以外の他人による昼夜二交代制の介護を受けながら自立生活を送っている。

 「(体を)おこして」「~を取って」など、介護自体は単純な作業の連続なのだが、これがめっぽう奥が深い。相手の手足になるために介護するわけだから、自分をできるだけ「無」にしなくてはならない。半面、何も意識せずに行動すると、相手に相当の恐怖を感じさせてしまう。介護に入るまで、障碍のある人と接したことがなかった私は、戸惑いが本人に伝わるような、相当ぎこちない動きをしていたはずだ。

 だからこそ、福祉や障碍者問題にまったく触れたことのなかった私にはすべてが新鮮で、無意識に当たり前だと思い込んでいた自分自身の価値観が大きく揺さぶられ、内面をえぐられる体験の連続だった。それらは決してラクではないのだが、得たものも非常に大きかった。


筆者

岩城あすか

岩城あすか(いわき・あすか) 情報誌「イマージュ」編集委員

大阪外国語大学でトルコ語を学んだ後、トルコ共和国イスタンブール大学(院)に留学(1997年~2001年)。通訳やマスコミのコーディネーターをしながら、1999年におきた「トルコ北西部地震」の復興支援事業にもボランティアとして関わる。現在は(公財)箕面市国際交流協会で地域の国際化を促す様々な事業に取り組むほか、重度の障碍者のみで構成される劇団「態変」の発行する情報誌「イマージュ」(年3回発行)の編集にも携わっている。箕面市立多文化交流センター館長。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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