平成政治の興亡 私の見た権力者たち(2)
2018年10月27日
消費税導入という大きな業績をあげながら、リクルート事件の嵐に飲み込まれて、竹下登首相が退陣を表明したのは1989(平成元)年4月25日。自民党は後継総裁選びに入った。
竹下氏自身は当初、伊東正義総務会長を担ごうとしていた。伊東氏は農林省出身。「清廉な会津の頑固者」として知られていた。大蔵省出身で首相を務めた大平正芳氏とは肝胆相照らす仲だった。竹下氏は大平政権の蔵相を務め、当時の官房長官、伊東氏と交流を深めていた。
しかし、伊東氏は、自民党の派閥体質などを厳しく批判しており、後継首相への意欲はなかった。89年5月10日、伊東氏は自民党の記者クラブでの会見で、後継首相に就く気があるかと問われて、「本の表紙だけを替えてもダメだ。中身を替えて意識改革をしなければならない」と断言。当時、自民党を担当していた私は、その発言を間近で見て、「伊東首相はあり得ない」と確信した。
竹下氏は続いて、当時外相だった宇野宗佑氏を担ごうと動き出す。表向きは7月にフランスで予定されていた先進国首脳会議(サミット)を控えて、「外交に通じた政治家」という理由だった。しかし、竹下氏の本当の狙いは違っていた。
宇野氏は、中曽根康弘前首相が率いる中曽根派の幹部。宇野氏を首相に引き上げることで中曽根氏の影響力を弱める。さらに、宇野氏は党内基盤が弱いため、本格政権にはなり得ない。竹下氏が盟友としてきた安倍晋太郎前幹事長に政権を譲り渡すことも容易だ。場合によっては、竹下氏の再登板の芽も残る。
長期政権と思いながら2年足らずで首相の座を降りざるを得なかった無念が、竹下氏には残っていた。「宇野首相」には、竹下氏の深謀遠慮がこめられていたのである。宇野氏は6月2日の自民党両院議員総会で新総裁に選出され、翌3日の衆院本会議で首相に指名される。
余談だが、朝日新聞政治部ではそのころ、首相が交代する時、「次期首相は誰か」を約50人の部員が予想する習慣があった。年末に結果が披露される。竹下後継については、伊東正義、後藤田正晴、福田赳夫各氏らの名が多くあげられていた。
宇野氏と答えたのは私だけだった。ささやかな景品を手にした。私は、竹下氏や小渕氏に直接、取材して「宇野」と確信していたが、先輩記者たちの「中曽根氏が許すはずがない」という判断もあって、残念ながら、新聞の紙面には載らなかった。
その宇野政権は、発足直後から逆風にさらされる。「竹下傀儡(かいらい)」という批判に加え、竹下政権が導入した消費税への反発も強まっていた。宇野首相自身の女性スキャンダルも週刊誌で報じられた。7月2日の東京都議選では、土井たか子委員長が率いる社会党が躍進、議席を3倍増の36とした。自民党は20減の43議席と惨敗を喫した。
直後の参院選(7月23日投票)でも、社会党が躍進して46議席を獲得、改選第一党となった。土井委員長は「山が動いた」との名セリフを吐いた。自民党は36議席にとどまり、初めて改選第二党に転落。宇野首相はなすすべなく、翌24日に退陣を表明した。69日間という超短命政権だった。
宇野後継をめぐる自民党内の権力闘争が始まる。とりわけ熾烈(しれつ)だったのが、最大派閥竹下派の内部対立だった。
竹下政権は「長期」という期待に反して、2年弱で幕を閉じた。そのため、竹下派の幹部たちは目算が狂った。橋本龍太郎、小渕恵三、小沢一郎、梶山静六、羽田孜の各氏らは、それぞれ竹下政権下で自民党や内閣の要職をこなし、その後に幹事長などを経て首相になるという道を描いていたのだが、竹下政権の予想外に早い終焉(しゅうえん)で、ポスト争奪戦が早くも始まったのだ。
89年7月30日、日曜日。後継首相をめぐる政局取材が山場を迎えていた。竹下派を担当していた私は、同僚と夕食を済ませた後、東京・元麻布の金丸氏の自宅前に立ち寄ってみた。しばらくすると、小沢氏と奥田敬和氏が出てきた。小沢氏は一瞬、「まずい」という表情を見せて、そそくさと車で立ち去った。奥田氏に食い下がると、車に乗れと言う。
奥田氏は人情家で、石川県の北国新聞の記者を務めた経験を持つ。「君らも朝から晩まで大変だよな」と、担当記者に好意的だった。
その奥田氏の車に同乗し、東京・高輪の宿舎まで取材した。「橋本君は、今回は見送りだ」とポツリと漏らした。詳細は語らなかったが、竹下派の幹部が集まって、宇野後継に橋本氏を推すことはしないと確認したという。金丸邸には、小沢、奥田両氏のほか、竹下、小渕、梶山、羽田、渡部恒三の各氏が集まっていたという。橋本氏以外の幹部である。
息せき切って築地の朝日新聞に戻り、朝刊用原稿を書いた。「橋本氏擁立を見送り」、そして「後継首相には河本派の河本敏夫会長か海部俊樹元文相」という情報も加えた。「海部首相」の流れができた夜だった。
河本派は党内最小派閥であり、「海部首相」なら竹下派のコントロールがきく。その点で、竹下氏も小沢氏も了解できる人選だった。宇野政権に続く竹下派の「傀儡政権」である。
小沢氏がこんな話を紹介して、珍しく高揚していたのを覚えている。「政治の師である田中角栄元総理から『総理・総裁になるのは時の運だが、幹事長になるのは実力を評価されてのことだ』と言われたことがある」
一方、社会党は参院選での勝利を受けて、「消費税廃止」を掲げて衆院の解散・総選挙を迫っていた。衆院議員の任期は90年夏に迫っていた。小沢幹事長にとって、解散の選択が最大の懸案だった。自民党取材チームで竹下派を担当していた私にとっても、解散が大きなテーマだった。
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