危険地を敬遠する組織メディアの記者たち。危険地取材の意義を改めて考えたい
2018年10月26日
安田純平さんが、帰国した。
解放直後に公開された動画や機内での報道陣とのやりとりをみる限り、やつれた表情ながらも受け答えははっきりしており、口調も冷静でしっかりしている。健康状態にも問題はないという。
その慎重で沈着な姿は、私の知る彼そのものだ。友人として喜びの感情がわく前に、3年4カ月に及ぶ過酷な拘禁状態を耐え抜いた強靱な精神力にまず驚き、敬意を抱いた。
拘束生活のうち8カ月間は高さ1.5メートル、幅1メートルの独房に監禁され、「虐待状態がずっと続いていた。精神的な負担もかなりあった」という。
7月末にネットに投稿された動画のなかで安田さんは「私の名前はウマルです。韓国人です」と不可解な発言をしていた。これについては「拘禁反応で錯乱状態なのでは」「抵抗の意思表示だ」「自分の発言をフェイクと受け止めろというメッセージだ」などと様々な臆測が飛び交ったが、真相は「自分の本名や日本人であることは言うなと要求された。他の囚人が釈放された後に監禁場所をばらしたら、攻撃されるかもしれないから」だったといい、拘束グループのルールに従っただけだと説明した。
真実は想像を易々と超える。
なぜ解放がこのタイミングだったのかについて、ニュースや紙面では「シリア内戦で劣勢になった反体制派の焦燥が募り、人質を抱えているのが重荷になった」「カタールとトルコの尽力は、共通の敵のサウジアラビアが記者殺害疑惑で国際的非難を浴びているのを横目に、自分たちは人権やジャーナリストを尊重しているとアピールする狙いもあった」といった見立てが盛んに報じられている。身代金をカタールあるいは日本政府が支払ったのかという一大関心事をめぐっても、推測が広がる。これらにも思わぬ事実が飛び出す日がやってくるのだろうか。
外交案件かつ人命案件という事件の全容に迫るのは難儀だが、拘束までの経緯や武装組織の内情などは、いずれ本人の口から語られるだろう。背景の解説も中東情勢の専門家に任せ、少し別の視点から、今回の事案で浮かび上がった幾つかの問題を考えたい。
最も心配していた本人や家族へのバッシングは、いまのところ主要メディアではほとんど見られない。
ジャーナリストの紛争地取材に厳しい目を向けていた産経新聞も、10月25日付「主張」は「危険を承知で現地に足を踏み入れたのだから自己責任であるとし、救出の必要性に疑問をはさむのは誤りである。理由の如何を問わず、国は自国民の安全や保護に責任を持つ」と断言。サイド記事も家族・知人の心配の声を紹介する、きわめて穏当な内容だった。
ネットではすでに「危険を承知で行くんだから死んでも仕方ない」「迷惑な奴」「どのツラさげて帰ってくるの」などと、いわゆる「自己責任論」の合唱が起き、ところどころで炎上している。が、こうした中傷や非難の主はほとんどが捨てアカウントや匿名の発信であり、その程度の安い「自己責任」しか持ち合わせない彼ら彼女らを相手にするのは時間の無駄というものだろう。
安田さんバッシングには外国メディアの特派員が「全く理解できない現象」などと発信しているが、こうした現象が起きる日本の特異性と、自己責任論が「責任」とは無縁の代物であることは、さきの記事「安田純平さんを忘れないで」でさんざん指摘しているので、ここでは繰り返さない。
まず検証しておくべきは、今回の政府の動きだ。
10月23日午後11時、官邸に急きょ戻って解放情報を発表した菅義偉官房長官は「官邸を司令塔とする国際テロ情報収集ユニットを中心に、カタールやトルコに働き掛けた結果だ」と胸を張った。
このユニットなるものの存在を今回初めて知った国民も多いだろうが、2015年12月に外務省、防衛省、警察庁などから集めた約20人態勢で発足し、現在の人員は約90人にまで増えた。だが、外務省関係者によると、官邸では当初、安田さんに対して「自己責任ではないのか」などと冷ややかな声もあったという。
シリアの反体制派とのパイプを持つカタールとトルコへの交渉を強めたのは、今年7月になって安田さんの動画や画像が次々と公開されて以降。「テロリストと交渉しない」姿勢を貫き、独自の交渉ルートを持たなかった日本政府がそれまでの3年間にどれだけ救出に力を尽くしていたのかは、不明だ(自国民保護については「安田純平さんが現れた」参照)。
安田さんの解放情報は発表の数日前からあった。まるで「寝耳に水」のような10月23日夜の政府関係者の慌ただしい動きを考え合わせると、シリア内戦の状況変化という主因の「棚ぼた」を、ここぞとばかり「ユニット」の活躍アピールに使ったようにしか見えない。
いずれにせよ、3年4カ月は、過去40年の邦人誘拐事件としては最も長い拘束期間だ(北朝鮮による拉致被害者は除く)。これほどの長期間、同胞を救えなかったという事実をこそ直視し、後藤健二さん・湯川遥菜さん事件のときのように、政府の検証委員会あるいは第三者委員会による総括をすべきだろう。
もうひとつ、安田さんの拘束があらためて浮かび上がらせたのは、危険地取材での組織人/フリーランスの「棲み分け」問題だ。
ジャーナリストが現場に行くことに理由は不要という意識は、かつてはメディアで働くだれもに共有されていた。ベトナム戦争では数多くのジャーナリストが現地入りし、結果、14人が命を落とした。そのなかには日経新聞や共同通信、フジテレビの記者やカメラマンも含まれる。
しかし、多くの人が感じているとおり、近年、戦場や紛争地で亡くなったり不慮の事故にあったりするのは、フリーランスや独立系メディアのジャーナリストばかりだ。
「9・11」後のアフガニスタン戦争やイラク戦争、その後の自衛隊サマワ宿営地の取材では、属する新聞社やテレビ局の業務命令によって、記者やディレクターが(多くの場合「横並び」で)現場から引き揚げ、フリージャーナリストが居残るという光景が繰り広げられた。
紛争地だけではない。福島第一原発事故時も、政府の避難指示範囲が広がるにつれ、会社員である組織メディアの記者らは、東京本社の指示で一斉に現場をあとにした。本人がいかに不本意でも、労働法規その他で社員に危険を負わせるリスクを冒せない会社の判断には、とりあえず従うしかない。
このようにメディア企業のリスク管理への意識が大きく変わったのは、報道関係者も多数犠牲になった1991年の雲仙普賢岳火砕流事故がきっかけとされる。
「危険取材をフリーに押しつけている」という大手メディアに対する批判があるが、実際のところ、テレビ局や新聞社が、社員を派遣できない所の取材を外部に任せることはない。当たり前だが、依頼すれば責任が生じ、万が一の際に批判を受けることは避けられないからだ。
多くのジャーナリストの現場ルポをテレビ局に紹介して放映してきた制作会社ジン・ネット代表の高世仁氏は、「危険地」を「テレビ局が事前に制作を発注してくれない取材地」と定義する。戦場や紛争地の取材は局に企画を出しても発注書や契約書が下りることはほとんどなく、まさに自己責任で取材した成果物を持ち込み、局側に「買う」か「買わない」か決めてもらうしかない。危険地取材は「売れない」危険も背負わねばならず、取材経費さえ取り戻せない場合も少なくないという。
「安田純平さんを忘れないで」で論じたが、ジャーナリストの現場取材に対する市民の目は厳しさを増しており、それに乗じるように、政権の報道への圧力・統制が強まっている。組織メディアが危険地取材の決断に踏み切るための環境は、より悪化しているといえる。このままでは危険地取材が細り、取材ノウハウも失われかねない。
1994年に取材途中の飛行機事故で不帰の人となったフジテレビの入江敏彦カイロ支局長は、生前にのこした論文で、万が一の危険を伴う取材には以下の要件があるとしている。
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