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安倍首相 憲法改正の本気度は?

歴代の「改憲派首相」の行動から浮かび上がる安倍首相の本当の気持ちとは

鈴村裕輔 名城大学外国語学部准教授

衆院本会議で所信表明演説をする安倍晋三首相=2018年10月24日衆院本会議で所信表明演説をする安倍晋三首相=2018年10月24日

安倍首相は改憲に向けて動き出した?

 今年9月の自民党総裁選挙に勝利した安倍信三首相は10月24日、第197回国会の所信表明演説の中で、憲法審査会において政党が具体的な憲法改正案を示し、与野党の枠を超えて幅広い合意を形成する必要性を唱え、改憲への意欲を示した。

 さらに、党人事でも、党内の改憲の議論の中心となる憲法改正推進本部長に下村博文氏、改憲案を国会に提出するのに先立って原案を検討する総務会を率いる総務会長に加藤信勝氏と、いずれも安倍首相の側近が就任した。

 こうした状況から、安倍首相がいよいよ憲法の改正に向けて本格的に動き出したと考えることは難しくない。

 2019年7月に行われる参議院選挙で与党が改選前の議席から勢力を後退させてしまうと、改憲案を発議しても衆参両院本会議でそれぞれ3分の2以上の賛成を得られず、改憲の機会を逃してしまう可能性が高まる。従って、安倍首相が速やかに改憲案を国会に提出し、両院の憲法審査会で審査して本会議で採決したいと考えることは妥当だ。

 だが、こうした推論が成り立つのは、「安倍首相は憲法改正を目指している」という前提に立つときだけである。もし、折に触れて憲法の改正を口にしてきた安倍首相が、実際には改憲を目指していないとすればどうなるか? 改憲を巡る安倍首相の行動は全て格好だけのものとならざるを得ない。

 果たしてそのようなことがありえるのか。あるいは、安倍首相が示してきた憲法の改正への意欲は口先だけのものなのか。歴代の自民党出身の首相の憲法改正への取り組みを参照しつつ、安倍首相の真意を探ってみよう。

「憲法改正」を唱えただけの鳩山一郎

 1955年11月、自由党と日本民主党が、いわゆる保守合同することで自由民主党が誕生した時、政権を担当していたのは鳩山一郎だった。

 日本国憲法の改正による自主独立、再軍備、対共産圏外交の必要性を唱えた鳩山は、1954年に日本民主党を率いて政権を獲得している。それ以前にも、自由党内の反吉田茂派を糾合して日本自由党を結成した鳩山が自由党に復党する際、復党の条件として憲法調査会を設けることを要求している。

 こうした言動ゆえ、一般に鳩山一郎は憲法改正を目指したと思われている。だが、実際には鳩山一郎政権下で改憲の議論が進むことはなかった。

 これは、直接的には1955年2月に行われた衆議院総選挙で左派社会党と右派社会党が躍進した結果だった。すなわち、左右社会党を合わせると、当時の衆議院の定員467議席の3分の1を超える156議席を獲得したため、日本民主党と自由党の保守政党だけだと、衆院において改憲案を通過させることが困難になったのだ。

 また、吉田茂政権下で反吉田派を率いていた鳩山にとって、米国との関係を最優先する吉田との差異を明らかにするためには、対米自立を訴えるのが最も説得力があり、しかも「マッカーサー憲法」とも呼ばれていた日本国憲法の改正を唱えることは、対米自立の象徴的な取り組みだったという面もある。

 実際、政権を担当してからの鳩山は、保守合同後の1955年12月に行った施政方針演説で「憲法改正」を唱えたものの、具体的な行動を取ることはなかった。むしろ、鳩山はソ連との国交正常化を優先し、1956年10月の日ソ共同宣言の締結に注力した。

改憲に取り組めなかった岸信介

静岡県伊東市の川奈ホテルで静養中の鳩山一郎首相(中央)を訪ねた民主党の岸信介幹事長(左)。右は三木武吉総務会長=1955年3月6日静岡県伊東市の川奈ホテルで静養中の鳩山一郎首相(中央)を訪ねた民主党の岸信介幹事長(左)。右は三木武吉総務会長=1955年3月6日

 鳩山政権を継いだ石橋湛山が65日間で退陣した後、政権を担当したのは岸信介だった。岸は憲法改正論者であることを隠さなかったし、改憲の必要性をと明言していた。しかし、政権を担当した鳩山が、それまでの改憲論を後回しにして、国際情勢や当面の課題の解決を優先したのと同様、岸も政権の座に就くと、それまでの改憲論の調子を落とし、1958年頃からは当時の日本の外交上の最優先課題であった日米安全保障条約の改定に取り組んだ。

 日米間の交渉が始まった1958年の時点では、安保問題が国民の注目を集めることはなかった。しかし、1960年5月に自民党が衆議院で新安保条約を単独で採決すると、「安保改定反対」という世論が一気に高まり、国会での機動隊と学生運動家の衝突や米国大統領ドワイト・アイゼンハワーの来日延期など、国論を二分する「60年安保闘争」となったことは周知のとおりだ。

 そして、6月18日に新安保条約が自然成立し、批准書交換が行われた6月23日に岸は辞意を表明、7月19日に第2次岸内閣は総辞職するに至る。

 「国会周辺は騒がしいが、銀座や後楽園球場はいつも通りである。私には『声なき声』が聞こえる」や「安保改定が評価されるには50年はかかる」という日本の政治史に残る言葉を残して政権の座から降りた岸は、1969年に自主憲法制定国民会議を発足させるなど、退陣後も憲法改正への意欲を衰えさせることはなかった。だが、政権を担当していた3年5か月の間は、最後まで改憲に本格的に取り組むことが出来なかった。

「憲法改正の歌」を発表した中曽根康弘氏

 歴代の自民党出身の首相の中で、鳩山や岸に勝るとも劣らない改憲論者として知られるのが、中曽根康弘氏だ。

「新しい憲法を制定する推進大会」であいさつする中曽根康弘元首相=2016年5月2日、東京・憲政記念館「新しい憲法を制定する推進大会」であいさつする中曽根康弘元首相=2016年5月2日、東京・憲政記念館

 日本国憲法の下で初めて行われた1947年の衆議院総選挙で当選して以来、「首相公選」と「憲法改正」を唱えた中曽根氏は、自作の「憲法改正の歌」を発表して、「青年将校」と呼ばれるほどの改憲論者であった。

 1953年にサンフランシスコ講和条約が発効、日本が独立を回復して進駐軍が撤退したにもかかわらず、「マッカーサーによる押し付け憲法」である日本国憲法は連合軍による無条件降伏の状態を強いている、という立場を取る中曽根氏は、『憲法改正の歌』の中で「占領憲法強制」や「マック憲法守れるは マ元帥の下僕なり」と憲法改正の必要性を説いている。

 1982年11月に首相となるに際し、外国人特派員に配布した冊子「私の政治信条」の中でも、「日本は米国から与えられた平和憲法を改正しなければならないというのは、私の一貫した信念である」と述べ、改憲への意欲をにじませた。

 それにもかかわらず、中曽根氏は4年11か月にわたって政権を担当していた間に憲法改正への動きを勧めることはなく、むしろ「現内閣で改憲を政治日程に乗せる考えはない」と述べ、改憲に消極的な姿勢さえ見せたのだった。

首相になって改憲に消極的になったわけ

 政界屈指の改憲論者である中曽根氏の、首相になった後の態度の変化は様々に理解できる。

 鳩山、岸と同様、中曽根氏も長期的な取り組みが必要となる憲法の改正よりも行政改革の断行が喫緊の課題であると考え、当面の問題である国営企業の民営化や売上税の導入などを目指したということは、分かりやすい答えだ。また、「風見鶏」と呼ばれ、絶えず自らの利益を追求することに貪欲であった中曽根氏が、改憲への取り組みを進めたところで、政権を運営する上で積極的な意味を持たないと判断し、憲法問題を口にしなくなったことも容易に想像できる。

 中曽根氏が鈴木善幸内閣で行政管理庁長官として入閣し、土光敏夫による第二次臨時行政調査会を通して行政改革を進めたことが国民の支持を集め、首相の座を手にする一因となったという点を考えれば、中曽根氏が国鉄や電電公社などの分割民営化を優先的に進めたことは合理的な判断だ。

 それとともに見逃せないのが、中曽根氏が首相となった頃の日本が置かれた状況や自民党内の様子である。

 中曽根内閣に先立つ鈴木内閣は、1981年5月の訪米時に鈴木善幸首相が「日米同盟関係に軍事的意味はない」と発言して米国側の反発を買っただけでなく、日韓関係に行き詰まり、財政再建の失敗などにより支持率を低下させていた。政治評論家の屋山太郎氏が「暗愚の宰相」と批判したことが象徴するように、国内外の問題に対処できなくなっていたのである。

 この鈴木内閣を引き継いだ中曽根氏は、「日米は運命共同体」、「日本は米国の不沈空母」と言い切り、日米関係を修復するとともに、就任後間もなく訪韓して全斗煥大統領との日韓首脳会談を実現して日韓関係を改善させ、行政改革による財政再建の推進などを行った。いわば鈴木内閣の政策を否定することで自らの独自性と優秀性を強調しようとしたのが初期の中曽根内閣であり、山積する課題を解決することによって国民の支持を得られることが分かった以上、国民が賛成と反対に分かれて対立するような憲法改正問題を取り上げて支持を失うことは得策ではないと、中曽根氏は判断したのだろう。

田中角栄の存在も重要

衆院本会議の指名投票で中曽根康弘首相が決定、拍手する田中角栄元首相(中央)。右は田中伊三次元法相=1982年11月26日衆院本会議の指名投票で中曽根康弘首相が決定、拍手する田中角栄元首相(中央)。右は田中伊三次元法相=1982年11月26日
 さらに、中曽根内閣の発足に大きく貢献した田中角栄の存在も、中曽根氏と改憲問題を考える際の重要な因子と言えよう。

 「金権政治」と非難される田中角栄が金の力を信奉していたことは広く知られる通りだ。参議院選挙に出馬した元NHKアナウンサーの宮田輝が田中邸を訪問すると、紙袋一杯の現金を手渡されたことや、日本経済新聞の連載「私の履歴書」が単行本となった際に、刷り上がった山積みの本を現金200万円で購入したことなど、田中角栄と金を巡る逸話は事欠かない。

 田中は金の力を信じるだけでなく、理念や主義ではなく現実的な課題の解決に重きを置く政治家でもあった。そのような現実主義者としての田中にとって、「首相公選」や「憲法改正」を唱える中曽根氏は、有力な総理総裁候補であり、田中内閣が誕生する際に協力してもらった間柄であるとしても、極端な空想主義者、理想主義者と言わざるを得なかった。

 その一方で、中曽根氏は鈴木善幸の後継者を選ぶ総裁選挙で田名角栄の支持を取り付ける必要がある。結果として、中曽根氏は「首相公選」や「憲法改正」といった持論を封印することで田中角栄に譲歩し、田中派の支持を獲得することに成功したのである。

 念願の総理総裁となるためには持論にこだわらないという柔軟さ、「議員の立場と首相の立場は別」という中曽根氏の姿勢は、「風見鶏」と称されるにふさわしいだけでなく、憲法の改正を信条とする議員であっても、自らの信念を貫徹することが、現実には容易ではないことをわれわれに教えていると言えよう。

「安倍さんはやる気」の印象を与えているが……

 鳩山一郎、岸信介、中曽根康弘の「改憲派」の政権は、いずれも首相就任後の当面の政治上の課題や国際情勢への対応を優先させ、改憲を実現させることがなかったという点で共通している。このような点を踏まえ、安倍首相の憲法改正への取り組みを眺めるとどうだろうか。

 確かに、「戦後レジームからの脱却」を唱え、改憲のために必要な国民投票に関するルールとして国民投票法を制定するなど、2006年に発足した第1次政権の頃の安倍首相は改憲への意欲を隠さず、実際の行動で憲法改正への道を切り拓こうとしていた。

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