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安倍首相 憲法改正の本気度は?

歴代の「改憲派首相」の行動から浮かび上がる安倍首相の本当の気持ちとは

鈴村裕輔 法政大学国際日本学研究所客員学術研究員

「憲法改正」を唱えただけの鳩山一郎

 1955年11月、自由党と日本民主党が、いわゆる保守合同することで自由民主党が誕生した時、政権を担当していたのは鳩山一郎だった。

 日本国憲法の改正による自主独立、再軍備、対共産圏外交の必要性を唱えた鳩山は、1954年に日本民主党を率いて政権を獲得している。それ以前にも、自由党内の反吉田茂派を糾合して日本自由党を結成した鳩山が自由党に復党する際、復党の条件として憲法調査会を設けることを要求している。

 こうした言動ゆえ、一般に鳩山一郎は憲法改正を目指したと思われている。だが、実際には鳩山一郎政権下で改憲の議論が進むことはなかった。

 これは、直接的には1955年2月に行われた衆議院総選挙で左派社会党と右派社会党が躍進した結果だった。すなわち、左右社会党を合わせると、当時の衆議院の定員467議席の3分の1を超える156議席を獲得したため、日本民主党と自由党の保守政党だけだと、衆院において改憲案を通過させることが困難になったのだ。

 また、吉田茂政権下で反吉田派を率いていた鳩山にとって、米国との関係を最優先する吉田との差異を明らかにするためには、対米自立を訴えるのが最も説得力があり、しかも「マッカーサー憲法」とも呼ばれていた日本国憲法の改正を唱えることは、対米自立の象徴的な取り組みだったという面もある。

 実際、政権を担当してからの鳩山は、保守合同後の1955年12月に行った施政方針演説で「憲法改正」を唱えたものの、具体的な行動を取ることはなかった。むしろ、鳩山はソ連との国交正常化を優先し、1956年10月の日ソ共同宣言の締結に注力した。

改憲に取り組めなかった岸信介

静岡県伊東市の川奈ホテルで静養中の鳩山一郎首相(中央)を訪ねた民主党の岸信介幹事長(左)。右は三木武吉総務会長=1955年3月6日拡大静岡県伊東市の川奈ホテルで静養中の鳩山一郎首相(中央)を訪ねた民主党の岸信介幹事長(左)。右は三木武吉総務会長=1955年3月6日

 鳩山政権を継いだ石橋湛山が65日間で退陣した後、政権を担当したのは岸信介だった。岸は憲法改正論者であることを隠さなかったし、改憲の必要性をと明言していた。しかし、政権を担当した鳩山が、それまでの改憲論を後回しにして、国際情勢や当面の課題の解決を優先したのと同様、岸も政権の座に就くと、それまでの改憲論の調子を落とし、1958年頃からは当時の日本の外交上の最優先課題であった日米安全保障条約の改定に取り組んだ。

 日米間の交渉が始まった1958年の時点では、安保問題が国民の注目を集めることはなかった。しかし、1960年5月に自民党が衆議院で新安保条約を単独で採決すると、「安保改定反対」という世論が一気に高まり、国会での機動隊と学生運動家の衝突や米国大統領ドワイト・アイゼンハワーの来日延期など、国論を二分する「60年安保闘争」となったことは周知のとおりだ。

 そして、6月18日に新安保条約が自然成立し、批准書交換が行われた6月23日に岸は辞意を表明、7月19日に第2次岸内閣は総辞職するに至る。

 「国会周辺は騒がしいが、銀座や後楽園球場はいつも通りである。私には『声なき声』が聞こえる」や「安保改定が評価されるには50年はかかる」という日本の政治史に残る言葉を残して政権の座から降りた岸は、1969年に自主憲法制定国民会議を発足させるなど、退陣後も憲法改正への意欲を衰えさせることはなかった。だが、政権を担当していた3年5か月の間は、最後まで改憲に本格的に取り組むことが出来なかった。

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筆者

鈴村裕輔

鈴村裕輔(すずむら・ゆうすけ) 法政大学国際日本学研究所客員学術研究員

1976年、東京生まれ。法政大学国際日本学研究所客員学術研究員。法政大学大学院国際日本学インスティテュート政治学研究科政治学専攻博士課程修了・博士(学術)。専門は比較文化。主著に『メジャーリーガーが使いきれないほどの給料をもらえるのはなぜか?』(アスペクト 2008年)、『MLBが付けた日本人選手の値段』(講談社 2005年)がある。日刊ゲンダイで「メジャーリーグ通信」、大修館書店発行『体育科教育』で「スポーツの今を知るために」を連載中。野球文化學會会長、アメリカ野球愛好会副代表、アメリカ野球学会会員。

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