自民は分裂、野党は共闘。それでも敗れた新潟市長選。沖縄は特殊だったのか
2018年10月31日
10月28日に投開票された新潟市長選で、野党共闘候補が敗れた。自民党は候補者一本化に失敗して分裂選挙になったにもかかわらず、野党共闘候補は及ばなかったのである。沖縄県知事選、豊見城(とみぐすく)市長選、那覇市長選と、沖縄で続いていた野党共闘の連勝は止まった。
実は沖縄県知事選と同じ日に投開票された東京都品川区長選でも、野党共闘は敗れている(「沖縄で勝ち、品川で負けた。野党共闘の課題は?」参照)。今回の新潟市長選は、来年夏の参院選に向けて、沖縄で発揮された野党共闘の成果が全国に広がるかを見極める重要な選挙であった。
野党共闘が通用するのは、基地問題を抱えている沖縄だけなのか。本土に対して「沖縄のアイデンティティ」で結束した沖縄だけが特殊なのか。
そうではない、と私は思う。
重要なのは「野党が勝つためには、ただ共闘するだけでは足りない」ということだ。新潟市長選から野党共闘の課題を再検証したい。
新潟市長選は、4期務めた篠田昭氏(70)が引退することを受け、前参院議員の中原八一(なかはら・やいち)氏(59)、前新潟市議の吉田孝志(よしだ・たかし)氏(56)、同じく前新潟市議の小柳聡(こやなぎ・さとし)氏(31)、前新潟市北区長の飯野晋(いいの・すすむ)氏(45)の無所属新顔の4人が立候補した。
中原氏と吉田氏は自民党に推薦を申請し、自民党本部は中原氏を支持したが、自民党新潟県連はどちらにも推薦を出さず、自民は分裂選挙になった。
一方、立憲、国民、共産、自由、社民の各党は小柳氏を支援し、野党共闘で臨んだ。
開票結果は以下の通りだ。
中原八一 98975票(得票率30%)
小柳聡 90902票(28%)
吉田孝志 90539票(27%)
飯野普 49425票(15%)
投票総数 332829人(投票率49.83%)
新潟と言えば、田中角栄の印象が強く、「保守王国」というイメージを抱きがちだ。しかし、2017年衆院選では、新潟市が含まれる衆院新潟1~4区はいずれも野党候補が自民候補に勝っている。野党共闘のたまものである。
新潟の野党共闘の歴史は長い。起点は2002年参院補選だ。
当時の民主、自由、社民の野党3党に加え、連合や市民グループが無所属候補を支援する形で自民候補を破った。そのとき当選した黒岩宇洋(たかひろ)現衆院議員は「その前の年の参院選新潟選挙区で自民候補は約42万票を獲得し、野党第一党は17万票あまりだった。野党が束になってでもまとまらないと、定数1の選挙では勝負にならなかった」と振り返る。
以来、野党各党や連合、市民団体が無所属候補を支援する「新潟方式」と呼ばれる野党共闘が続き、安倍政権下でもかなりの成果をあげてきた。
ところが、今年6月の新潟県知事選に続いて、今回の新潟市長選でも敗れ、2連敗を喫したのである。新潟の野党共闘、「新潟方式」に何が起こっているのか。
「共産党があまり前面に出すぎると、中道の有権者が逃げてしまう。左エンジンと右エンジンとのバランスを取るのが難しくなっている」
黒岩氏はそう言う。2015年の安全保障関連法の成立以降、共産党が共闘に加わるようになってから足並みを揃えるのが難しくなってきた、という分析だ。
野党共闘に加わる各党の不協和音は、決して珍しいものではない。
新潟市長選で敗れた最大の理由は別のところにあると私はみている。一言で言えば、「争点設定」に失敗したのだ。
野党共闘の小柳陣営が主にPRしたのは、31歳という若さだった。当選していれば、確かに政令指定市の市長としては最年少となっていた。
しかし、今回の新潟市長選で「若さ」や「世代交代」は争点にならなかった。多選高齢の現職に野党共闘の若手新顔が挑む構図なら、そうなっていたかもしれない。だが、今回は他の候補はみんな新顔のうえ、40~50代で「高齢」といえる年齢ではなかったのだ。
さらに「自民分裂」がかえって「野党共闘」の影を薄くした。
4年前の市長選にも立候補して敗れた吉田氏は今回、自民党の支持を得られなかったものの、「変えよう新潟」「BRT(バス高速輸送システム)廃止」とひたすら連呼し、「新潟市政の継続か、変革か」という争点づくりに成功した。
投開票日2日前の夕方、新潟駅近くの街頭で、吉田氏はこう訴えていた。
「今度の選挙は選択選挙です。今までの新潟市の流れをそのまま続けるのか。それとも、私たちの手で変えていくのか」
吉田氏の演説の歯切れ良さは話題となった。さらに、選挙戦術も目新しかった。従来の自民党の選挙では、公民館などの会場で開催される演説会に支援者を集めて支持拡大を呼びかけることが多かったが、吉田陣営は支援者を集める演説会を告示日の出陣式など3回にとどめ、あとは連日、住宅地や団地、ショッピングセンターに向かって「変革」を叫んだ。動員は一切なく、1回の街頭演説は15分。そしてその動画をSNSで拡散した。
これが功を奏した。「若さ」ではなく「市政の継続か、転換か」という争点は広く浸透し、そのなかで吉田氏は「変革者」「挑戦者」のポジションを手に入れたのだった。
吉田氏は自民党衆院議員だった吉田六左エ門氏の娘婿。まちづくりや都市開発に携わる企業勤務や六左エ門氏の秘書を経て、2007年の新潟市議選で初当選した。市議会の保守系会派に所属し、同僚議員は「党務や選挙を真面目にこなす、ミスター自民党だ」と口を揃える。
歯切れ良い演説は、最初からできたわけではない。
「最初の選挙の頃は演説の声も小さかった。支援者から話が長いのは頭が悪いんだって言われて。『ちゃんとせがれに言えよ、六さん』と言われたものです」と六左エ門氏はいう。
ところが、吉田氏の長女まゆさん(22)でさえ「ポピュリズムのように感じられるかもしれませんが、父なりにアピールの仕方を工夫したんだと思います。今回の父の訴えは、2年前の東京都知事選で自民党の推薦を得られなかった小池百合子さんを彷彿とさせます」と言うほどになった。
私は吉田氏の選挙戦を取材していて、「郵政選挙」と呼ばれる2005年衆院選を思い出した。
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