韓国の大学教授は政府高官に就く。だが教授という職業は本来、ブルーカラーなのだ
2018年11月04日
*この記事は筆者が日本語と韓国語の2カ国語で執筆しました。韓国語版(한국어판)でもご覧ください。
文在寅(ムンジェイン)政権の法務大臣は、筆者が韓国延世大学の教授在職時の先輩教授である。それ以外にも現政権第1期内閣の長官18人のうち6人が大学の教授職経験者である。そして「青瓦台」すなわち大統領府の首席秘書官以上の政府高官も、11人のうち4人以上が元大学教授である。
それでも現政権の要職者に占める教授職経験者の比率は少ない。これまでの政権の場合には、国務総理(首相)をはじめ、大統領府の秘書室長、各部の長官のより多数が大学の教授職経験者であった。
韓国の実情を比較的詳しく知っている日本の同僚教授が、いつか筆者に質問したことがある。韓国では政権ごとに国務総理、副総理、長官から大統領府の秘書の責任者に至るまで、大学の総長や教授たちが参与したケースが多いし、そのような人事がとりあげられる時には必ずその下馬評に大学の教授の名前がのぼるが、それはどういう事情であるのかという質問であった。
彼がそのような質問をしたわけは、もちろん日本ではこのようなこと、つまり学界の人物が政官界に進出することが極めて珍しいことであり、稀にそのようなことが起こる場合には大義名分や説得力ある理由が必要であるからである。
なぜ韓国ではそうなのか。いうまでもなく議員内閣制をとる日本の政治制度と大統領制である韓国のそれとの違いがいちばん大きな理由であろう。またひとつには、日本では長い時間をかけて専門家、特に経済分野や行政各分野の専門家が官僚社会の内部で養成されてきたことも挙げられる。現代政治史の蓄積が浅い韓国では、まだ各分野の専門家グループが育っておらず、学界に頼らざるを得ない側面があるのだ。
さらにもうひとつ加えるなら、ながく続いた韓国の軍事独裁政権には知識人に対するコンプレックスがあり、学者グループを内閣に多数動員することによってそれを克服しようとしていたという、うがった見方も可能かと思う。
しかしそれらにもましておおきな理由は、朝鮮時代の政治史のなかに見出される。
朝鮮時代には、政治、行政の担当者を学者から取り立てた伝統がある。彼らはみな儒学者であるが、実際的な政治に積極的に参与するグループと、いわゆる「在野」にとどまるグループがあって、学派をベースにして種々の党派や政治派閥を形成してきた。
もちろんどんな時代にも、政官界に進出して政治権力に参与することを学者として拒否し、野に在って学問研究に精進する学者はいるもので、現代の韓国においても政官界に出ることを望まない者は多数いる。
付け加えれば、政権によっては法律家を多数登用する場合もあるが、これも「科挙」という高麗、朝鮮時代の官吏登用試験の伝統の名残であると思われる。国家試験の中でも難関とされる「司法試験」をパスした人物を、昔の「科挙」に合格した人々と同じように考えてのことであろう。
十数年前、筆者が韓国の大学に在職していた頃に、権力志向のつよかった一人の先輩教授の長広舌が思い出される。彼は、韓国の大学の教授は基本的に長官レベルとしてみるべきだと説いた。もちろん大学の学長や総長は総理レベルであるという。しかしそれも大学のランキングによって事情はぜんぜん違ってくるという話であった。筆者はそのような説明を聞きながら苦笑を浮かべた記憶がある。
もちろん総理や長官、次官は素晴らしいリーダーシップを発揮しなげればならない立場であるし、国家、社会をリードする重い責任を背負う職務であることは十分に理解しているつもりである。しかし、学者としてのプライドとアイデンティティーを持つべき教授が、国家公務員にならって序列化されるなどということはあり得べからざることであり、その程度の自尊心しかないなら、どんな顔をして教え子たちの前で学問を論じ、普遍的な価値を教えることができるのかと考えたのである。その先輩教授のような人物はむしろはじめから政界に進むなりして、自己の権力志向を満足させてくれる分野で活動した方がよい。尊敬を受ける学者や教授では決してないと思ったのである。
だいたい彼のように権力志向をつよくもつ教授たちは、いわゆる学内政治、つまり大学内での役職と権力に執着し、特に学長や総長の座に着くことに血眼になる場合が多い。
もちろん韓国の大学教授の一部、いや大部分の教授はそうではないと確信する。それでもやはり一部の教授は、自身の社会的な誇りを政官界との互換性、あるいは企業や社会的利益団体との関連性のなかにつくりあげているのではないかという思いをぬぐいきれない。
たまに尋ねられることがある。日本の大学教授と韓国の教授と、どちらがより社会的尊敬を受けているのかと。単純に比較することはできない。むしろ筆者は、教授たる者かならずや人々の尊敬を集めなければならないとか、いつも人々を教え諭す立場にいなければならないとは考えない。言い方を換えるなら、教授には「ブルーカラー」としての職業意識が必要ではないかと思う。
学者や教授は、権力あるいは社会的な影響力を直接的な尺度とする政、官、財界との互換性で評価されるべき職業ではない。きわめて高度な専門性をもつ一個の人間として、あるいは価値創造と一貫した主張の担い手としての自己にプライドをもつべき存在なのだ。
筆者は、教授や学者は思考と知識を生産し、それをサービスする労働者ではないかと考える。「ブルーカラー」だと述べたのはそういう意味である。実際、今日もそうであったし、明日もそうであろうが、汗を流しながら、自己の思惟と知識を一生懸命にクラスで話すことを筆者は自分の天職と思っている。
チョークの粉を白く撒き散らしながら熱弁を振るう筆者の講義は、その内容の良し悪しはひとまず棚に上げるとして、やはりキツイ労働であることはたしかである。三、四時間の連続講義が終わると、筆者のブルージーンズはチョークの粉に塗れていて、声はかすれるし、もはや体力もまったく残されていないような状態である。もちろん講義だけが労働ではない。その知識を生産するまでの読書や研究も労働であろう。筆者がわが大学のある教授ととりわけ親しくなったのも、このことを話して意気投合したことがきっかけであった。彼もやはり大学の教授は「ブルーカラー」であることを確信していた。
もちろんそれは伊達や酔狂、つまり見かけだけであってはならない。じつに多くの”知識人”が自分の仕事を飾りたて、偉そうなふりをしているが、反対に、あざといほどにへりくだって、自分をなにか民衆の生き方の代表でもあるかのように作りあげている姿もよくみかける。実際には民衆の生活などというものを経験したこともなく、彼らの人生の哀歓を実感することもできないまま、あたかも自分が彼らとともにいるように錯覚し、なりすましている”知識人”もまた多い。これは筆者自身もそのように自分を偽ってはいないかとつねに自戒するところである。
筆者がここで教授や学者が「ブルーカラー」であるというその意味は、彼らの研究や知的生産、あるいは教育の場における活動そのものが激しい労働であるということだ。
専門的労働者、知的労働者というような分類が可能かどうかはしらないし、労働を種別することに意味があるとも思えないが、ともかく労働者意識を持たなければならないと考えている。そして筆者は、自身が労働者意識を忘れないために、いつもまず服装を仕事しやすいものとすることを心がけている。特別なときでなければネクタイを締めたり、りっぱな服装はしない。
趣味もなるべくなら高尚な趣味よりは多くの人々といっしょに楽しめるようなものが自分には似つかわしいと考えている。食べ物についてもやかましくいわない。多くの人々が楽しむ食べ物を一緒に味わえればそれでよい。たとえ経済的な余裕があったとしてもなるべく倹約して、奢りたかぶった生活はできるだけ遠ざけておきたいと思っている。
とはいえ、もちろん例外はある。誰にでもあるであろう一つ二つの特別な愛着、それは尊重されなければならない。それはその人にとっての人生の愉楽である。そんなささやかな贅沢は見逃されてよいのだ。
ただともかく筆者は、全体としては平凡で、通俗的で、「貧乏くさい」学者でありたいと願っている。本来経済的にはそんなに豊かな生活ができない職業が教授や学者なのである。多少みすぼらしくてもなにを恥じることがあろうか。言い過ぎかもしれないが、汗の臭いがしない教授、生活者としての様子がみえない学者はむしろかっこ悪いとさえ思う。
とくに人文学の分野の学者は、自分を飾り立てることをしないその姿や感性から人文学的思考が紡ぎ出され、人としての生き方や普遍的な価値についての理解が深まってゆくのではないか。不自然に自分を飾り立てるところには特殊な思想しか生まれないし、民衆の精神が理解できることを強調していても、それがただのイデオロギー的な建前であったりする。
そんなわけで、あくまでも個人的な見解にすぎないのだが、筆者は、大学教授、特に人文学系の教授は、なるべくネクタイを締めないほうがよいと思う。ブルージーンズか、ゆるゆるの綿ズボンを着るのがよい。そしてみすぼらしくて安い食堂ではやり歌を聞きながら鍋のスープを飲んでいるのがよく似合う。暑い夏の日は汗の臭いに気をつけなければならないことや、袖が白いチョークの粉まみれであることは、むしろ勲章なのだ。
念のためにもう一度繰り返しておく。ネクタイを端正に締めることが趣味である教授の場合には、彼のそのこだわりは最高に尊重されなければならない。同様に、万年筆だけは高価なものを持ちたいという誰かの望みも認定されてよい。歩行に不自由がある筆者の場合、自分の足代わりの自動車に対しては少々やかましいのだが、それくらいは受けいれられてよいはずだ。矛盾だといわれても、労働者にも幸せになる権利はあるのだといいたい。
学界と政官界の互換性について韓国のことを論じながら、話がここまで逸れてしまった。読者の容赦を請う。
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