2018年11月02日
10月23日(火) 光州フォーラム3日目。午前中のテレビとSNSの関係にまつわるセミナーなどを聴く。『世界を変える15分』の成功ストーリーなど。要は、お金儲け=ビジネスの話だ。地上波とネットとオフラインのあいだの本質的な差異が話し合われない。
お昼に光州ビエンナーレへのミニツアー。これがとても面白かった。ディアスポラが大きなテーマとなっている。わざわざ光州まで来た甲斐があった。中国からのドキュメンタリー作品『人生一串』。中国の庶民の味・串焼きを、ハリウッド映画みたいに巨額のお金と時間を費やして制作されたという感じ。これをネットサイトで独占的に公開したからって何の意味があるというのか。中国のテレビ界と日韓のテレビ界とのあいだには明らかに溝がある。
午後、NHKの作品『ブラタモリ』。倉敷の回。実は僕はあんまりテレビを見なくなってしまったので、この日本の人気番組もみたことがない。タモリと言えば、僕の世代では、あの強烈な『4か国語麻雀』の出し物なのであって、『笑っていいとも!』ではないのだ。だから、いい人=タモリの旅番組には興味が向かっていかないのだ。上映後に、韓国の参加者から、倉敷の紡績工場が紹介されていたくだりに関連して「徴用工の問題など歴史的に痛ましい出来事を取り扱う際に、政府からコントロールはないのか?」という質問が飛び出した。ぎくりとした。これに対して参加していた『ブラタモリ』のプロデューサー氏は、「NHKは公共放送であって、不偏不党、中立に伝えることをやっているので、政府からの圧力は基本的には全くありません」などと答えていた。それを聞いていた僕は、心のなかで「本当にそうなのかい?」と呟いたが、何だか『ブラタモリ』の足を引っ張るような気分に陥ってしまい、質問もできなかった。
ホテルに戻って映画『共犯者たち』の推薦コメントと「琉球新報」講演記録の校正。あしたは、光州からソウルへ向かうことにしてチケットの予約をS大兄にやっていただく。
閉会式のあと、韓国側のスタッフ4人とこちらも、S、S、K3氏らを含めて8人で、近所の居酒屋に行ってワイワイと論じあっていたら、何と23時48分、シリアで武装勢力によって拘束されていた安田純平さんが解放されたとの一報。Kさんが朝日新聞のニュース速報で知って教えてくれた。トルコ南部にいるらしい。これは大変だ。ソウル行きどころではない。すぐに東京サイドと連絡をとる。東京サイドはYプロデューサーがひとりで対応しているようだった。すぐに帰国できる便、あるいは韓国からイスタンブールに直行便があるかどうかを調べる。すると最速で、あしたの朝7時45分発の金浦―羽田便があった。だが光州から金浦まではもう足がないのだった。あと7時間しか出発まで時間がない。もともとは光州事件の記念館に朝8時半からS、K両氏と行く予定だったが、それどころではなくなった。
とにかくいっぺんにアルコールも醒めてしまい。あわてて荷物をパッキングする。シャワーを浴びて、フロントに聞くと、ここからだと金浦空港までタクシーで4時間、料金は割引料金で35万ウォン(約3万6000円)で行かせるという。そうか、でも仕方がないか。行くしかない。そうでなければ帰国は午後遅くになってしまう。
10月24日(水) 午前1時半にYと話をして、とにかく帰国するがトルコに行っても行き違いになる可能性があるとの見立てを伝えられる。ここは決断するしかない。午前3時に光州のホテルからタクシーで金浦空港まで突っ走るのだ。午前3時前にフロントでチェックアウト。S大兄に手紙を残して金浦空港へ。1台の中型タクシーが来た。50歳くらいのおっさん運転手さんだ。タクシー運転手。考えてみればあの映画『タクシー運転手 約束は海を越えて』の時と同じことをやろうとしているのだった。もっともあの時代は今のように高速道路が完備していなかっただろうから、しんどさは比較にならないだろうが。おっさん運転手に英語で話しかけるが「ノー・イングリッシュ!」と大声で叫んで、あとは独り言のように韓国語で一方的に話しかけてくる。こっちはさっぱりわからないが、相槌を打つしかないのだった。眠い。全く寝ていないので。それどころかまだ若干アルコールが残っている。とにかくすごいスピードで走っている。平均時速は130キロくらいではないか。途中、霧が濃くなってちょっとこわい。けれどもこのおっさん運転手はスピードを下げない。ああ、このドライバーに命を預けるしかないのか。途中、何度か吐きそうになる。何とこのおっさん運転手のおかげで、金浦空港には午前6時15分に到着した。
とにかくチケットを押さえる。それは何とかなったが、もともとのチケットが変更不可の安いチケットだったので、帰り便は放棄することになる。借りていたポケットWi-Fiを返却しに到着階に駆け降りる。今日中にトルコに入るための準備。一緒に行くRディレクターが手配している。7時45分発の羽田行きは満席。危ないところだった。
9時55分羽田着、そこから一旦自宅に戻る。下手をすると、トルコから次のアメリカ中間選挙取材のためにワシントンDCかNYまで直行便で行く羽目になるかもしれない。まいった。それでアメリカ行きのことも考えて大きめのスーツケースにできる限りのものをさっさと詰め込んで、局へと向かう。午後5時半には局から成田へ行くのだが、現地情報が流動的で、帰国が早まるとの情報もある。安田さんは、今はトルコ南部のアンタキヤの入管施設にいるとのことだが、早ければイスタンブール経由ですぐにでも帰国する可能性もあるというのだ。すでにロンドン支局から記者らが大勢取材に入っているし、帰国便の箱乗りも想定しているとのこと。問題は現地のコーディネーターがみつからないことだった。これまでお世話になったEさんやNさんは不可能。いろいろ手を尽くしたがダメだった。とにかく今夜成田発のトルコ航空のイスタンブール行きの便に乗るしかないか。
成田空港で、取材クルーと合流。あとはチェックインするかしないかの判断だ。だがここで番組のSデスクから、安田さんの帰国のテンポが早まっていて、今夜の便で向かっても「行き違い」になる公算大との情報。あちゃー! それで泣く泣くイスタンブール行きをやめる。あした帰国したところを待ち受けるしかない。ましてや箱乗りの手配も済んでいるとのことなので、これはやむをえない。本当にまいった。Rディレクターらと成田から引き上げる。トルコ行きを聞いて、慌ててキャンセルしたアポイントメンㇳを今度も慌てて復活させる。本当にバタバタだ。迷惑をかけてしまった。
10月25日(木) 安田純平さん解放関係で朝から情報収集。2015年の安田さんも参加したシンポジウムの素材の件や、同時期に拘束されたスペイン人ジャーナリストの素材の件など。Rディレクターらとともに成田空港に午後5時前には到着。空港ロビーにはたくさんの報道陣が来ているが、それぞれ「仕切り」「縄張り」「掟」のようなルールがあって、空港腕章や登録手続きがなければ、パスポートコントロールより外側の空港施設内は取材ができない。情報が二転三転したが、結局、安田さん本人は到着ロビー出口には姿をみせず、タラップ下から車でそのまま病院に向かうとのこと。妻の深結(みゅう)さんが、記者会見をする方向だという。
到着時刻が早まって、午後6時半すぎに、僕らの位置の窓越しから安田さんが帰ってきた姿をみることができた。黒いTシャツ1枚のやせ細った安田さん。よく3年4か月のあいだ耐えしのんだものだ。その精神力の強靭さに脱帽する。
深結さんの記者会見は当初、質問を受けつけないとの言い渡しがあったが、抗議をするとすぐに撤回して質疑があった。よかった。と言うのは、その方が、双方(話す側と訊く側)にとってプラスだからだ。長い、長い一日だ。だが3年4か月、1200日あまりに比べれば、一瞬みたいなものだ。会見場で一緒になったWさん、Dさんと一緒に車で帰る。ネットでまたぞろ自己責任論なるものを持ち出しての安田さんバッシングが祭状態だという。
10月26日(金) 朝、どうにもこうにもおさまりがつかず、プールに行って泳ぐ。その後、午後1時から、トルコ取材予定で一旦キャンセルしたのに、きのうになって「復活」を急遽お願いした「かわさき市民アカデミー」での講義。安田さん解放、サウジアラビア記者殺害、沖縄県知事選挙の話をしたら時間が足りないくらいだった。
午後4時からワシントンDC在住のGさんと打ち合わせ。その後、早稲田のM、H君らと打ち合わせ。
10月27日(土) 「報道特集」のオンエア。前半は、安田純平さん解放ストーリー。2012年に「報道特集」が放送していた安田さんのシリア・リポートの映像がすべてを雄弁に物語っていた。つまり、僕らは安田さんの仕事ぶりを自分たちの番組の仲間として共有していたのだ。それなのに、なぜ安田さんが消息を絶って以降、今どこにいるのか、なぜ助け出すことができないのかというストーリーを、拘束されていた3年4か月のあいだに一度も放送できなかったことを顧みるべきだと僕自身は強く思っている。解放された安田さんに雲霞のごとく群がる報道陣の一員で甘んじていてはいけない独自の責任があるのだ。ましてや、自己責任論を言い立てるあれら反動的な人々には微塵たりとも与することはできない。
後半の特集は、日下部正樹キャスターが長期にわたって継続取材している朝鮮人BC級戦犯のストーリー。これほどのあからさまな理不尽、不条理が放置されている。まさか自己責任などと言うのではあるまいな。オンエア後、あしたからアメリカに長期出張となるので、筑紫邸にうかがい、死後10周年忌の焼香をさせていただく。早めに帰宅して出張用のパッキング。
10月28日(日) 午前10時40分発の便でワシントンDCへ向かうため午前7時に家を出る。今回は結構長期の旅となる。12時間半の長旅。機内で映画を2本みてしまう。両方ともいい映画だった。『The Guernsey Literary and Potato Peel Pie Society』。何と読書会が舞台装置になっている。ナチス占領下のイギリスの小さな島で起きていたこと。もう1本はドイツ映画『A Dysfunctional Cat』。ドイツで暮らし始めたイラン人夫婦の話。これもいい映画だった。何でこんなにいい映画が日本で公開されないんだろう。日本の映画公開環境がよほど貧しいのだろうか。
本当に久しぶりのワシントンのダレス国際空港。Mディレクター、Mカメラマン、Iさんらのチームと合流。といっても、そのままさっそく中間選挙の取材だ。ヴァージニア州在住のヒスパニック女性の熱烈トランプ支持者のお宅を訪ねる。閑静な新興住宅街にあるお宅。2年前の大統領選挙の際も取材をさせていただいた。とにかくトランプを何が何でも支持するプエルトリコ出身の64歳の女性Jさんだ。自宅前の芝生に「トランプ/ペンス」の選挙運動サインがたくさん掲示されているので、すぐにわかる。2年前と同じだな。先方もよく覚えてくれていた。頭がボーっとしていて、英語がすぐに出てこない。ブロークンな英語でとにかく何でトランプ支持なのかを聞いた。「2年前よりも、もっともっとトランプ大統領を支持している」と。「リベラルメディアは足ばかり引っ張るが、トランプ大統領が成し遂げた業績は2年間だけでも偉大だ」と、すごい勢いでまくし立てる。揺るぎない。何だか毒気にあてられたような気分になる。
そこから車で4時間あまりかけて、ペンシルベニア州のいわゆるラストベルト=錆びた工業地帯の一都市、Monessen(モネッセン)へと向かう。到着すると、町はすっかり夜になっていたが、Monessenの町のすさみ方は尋常ではなかった。かつては鉄鋼で栄えた町だ。この地で2年前にこぞってトランプ大統領に投票した人々は、今何を考えているのだろうか。思ったよりずっと寒くて、ダウンのコートを持ってくるべきだったと後悔する。
夕食をとれるレストランを探すが、なかなかない。一軒、イタリア料理のレストランがあるというので入ったが、ペンシルベニア州で一番まずいイタリア料理店ではないだろうか。ゆですぎたウドンのようなスパゲッティに、馬糞のような巨大なミートボールが乗っていた。サラダはしなびたカットレタス。ここまでまずいイタリア料理はこの数年口にしたことがない。Monessenの人々は大変だなあと思う。味のまずさがテーブルに座った僕ら4人の共通認識であることは言葉を交わすまでもなかった。ホリデイ・インにチェックイン。酔っ払った白人の客がいた。
10月29日(月) 日本との時差は13時間。それでちょうど午前0時になった時から、ホテルの部屋からSKYPEを使っての講義。明治大学アカデミーコモンの3回シリーズ「メディアと憲法」で。インターネット環境がMonessenはよくなくて、アイフォンを使っての講義となる。そのままSKYPEを使っての早稲田大学の授業とゼミ。時計をみると、もう午前4時だ。眠る。まいった。疲れ果てた。
午前8時45分に起床。慌ててパッキングして、ホテルの朝食のパンを胃の中に入れて、9時半にホテルをチェックアウト。Monessenを取材。かつて鉄鋼工場に勤めていたジョン・ゴロンブさん(68)に話を聞く。彼は怒っていた。その直截な怒りがみるみる伝わってきた。ゴロンブさんとともにダウンタウンの荒廃ぶりを見て歩く。撮影の甲斐がある。これほどの荒廃。この町Monessenの歴史の一端を知っていろいろなことを考えさせられた。北海道のいくつかのかつての炭鉱の町を思い出した。とっくに稼働をやめた製鉄工場の撮影。Mカメラマンの腕のみせどころだ。寒い。
その後、ピッツバーグの乱射事件のあったシナゴーグ(ユダヤ教礼拝所)へ移動。まいった。これほどの惨劇があった現場は閑静な住宅街の一角だ。たくさんの報道陣が来ていた。CBSのローカル局の若い女性が一人でカメラをセッティングし、一人でリポートし、一人で撮影をしていた。おそらく一人で車を運転してここまでやって来たのだろう。花を手向けて祈りを捧げている人々に話を聞いたが、本当にこのような事態をHeartbreakingというのだろう。近所に住むひとりのご婦人が、涙を流しながら「こんなことになったのは国民を分断させたトランプ大統領のせいだ」とはっきりと訴えるように話してくれたのが心に刺さってきて、何もフォローができなかった。まいった。あした、このシナゴーグにトランプ大統領夫妻がやって来るという。本当かよ。その時刻、僕らはフロリダに移動することになっているが、どうしたものだろう。
寒い。からだが冷え切った。空腹をこらえていたので(考えてみたら昼飯抜きだった)、ピッツバーグの宿舎の近くにあるレストランをさがした。するとシリア料理のレストランがあるという。そこだ!と4人の意見が一致して飛び込む。前日のイタリアン・レストランに比べると5万倍くらい美味しかった。海外出張のクルーは「糸の切れた凧」のようになりやすいものだ。現場でみた状況をどこまで東京と共有できるか。
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