2018年11月05日
ドイツのメルケル首相が先月29日、12月7日に開かれるキリスト教民主同盟(CDU)の党大会で党首選に出ないと宣言、事実上の退陣表明をしたが、その最大の被害者はフランスのマクロン大統領ではないか。第2次世界大戦後、欧州統合を目指して営々と築いてきた「理性的結婚」とも言われる仏独関係が、ついに破局の時期を迎えそうだからだ。
激務のせいか、このところ「激やせ」(某閣僚)が目立つマクロン仏大統領。支持率がついに30%台まで下落するなかでの突然の「メルケルショック」に、激やせに拍車がかかりかねない。
ところが10月最終の週は30日火曜日に開かれた。同日午後からマクロンが11月3日まで休暇に入ったからだ。閣議後の定例会見で、グリボー政府報道官は、「何百万人のフランス人同様、(疲労の)大統領には休養が必要」と説明したが、第5共和制(1958年制定)発足以来、大統領が個人的理由で水曜日の閣議を変更するのは初めての極めて異例な事態だ。
マクロンはこの間、ヴェルサイユの大統領府別館や仏北部トゥーケの自宅にも寄らず、雲隠れ状態だ。2017年5月の就任以来、国内視察170回、海外出張66回(2018年10月末現在)に加え、コロン辞任のきっかけになった個人的ボディーガードのスキャンダル(デモ隊への暴力行為)などで精神的にも参っていたといわれる。40歳の若さを誇るマクロンもさすがに疲労困憊(こんぱい)なのだろう。11月1日は「諸聖人の祝日」でフランスは公休日で連休を取る国民も多い。大統領も同様に休む権利があるというわけだ。
しかも、11月11日は第1次世界大戦休戦の100周年記念日だ。マクロンは11月4日午後から10日まで、激戦地の仏東部ヴェルダンなど11県を訪問し、10日には第1次世界大戦の休戦協定を結んだ仏北部コンピエーヌの森でメルケルと共に盛大な式典に臨む。11日は例年通り、凱旋門の下の無名戦士の墓を参拝とスケジュールがぎっしりだ。休養して英気を養うつもりだったのだろう。
そこを襲ったのが、メルケルの「出馬せず」の宣言だった。マクロンは、「非常に威厳のある決断」と称えたが、「なぜ、今、テーブルをひっくり返すのか」と内心は憤懣(ふんまん)やるかたなし、だったとも伝えられる。
来年3月には大統領としての成果が問われる欧州議会選挙が実施される。マクロンの出身政党「共和国前進(REM)」が大統領選の勢いをかって圧勝した2017年6月の選挙の再現を容易に果たせるとは、マクロンはじめ誰も信じていない。そうした盟友の正念場の時に、しかも州選挙の敗北の責任を取る形で、「なぜ、相談もせずに事実上の退陣宣言をしたのか!?」と怒りを募らせても不思議はない。
メルケルが今回の決断に踏み切った直接のきっかけは、10月28日のヘッセン州議会でのCDUの敗北だ。その2週間前の10月14日にはバイエルン州でも姉妹政党のキリスト教社会同盟(CSU)が敗退した。この二つの州選挙では、緑の党と、「反難民」「反ユーロ」を標榜する極右政党「ドイツのための選択肢(AfD)」が躍進した。
メルケルが2015年に発表した「難民100万人受け入れ」が与党敗北の真の理由であることは誰の目にも明らかだ。16年には難民の一人、過激派イスラム教徒によるベルリンの「トラック爆走テロ」で死者11人、負傷者多数が出て、「反難民」「反メルケル」を勢いづかせた。政府内でも、「反難民」のホルスト・ゼーホーファー内相(CSU党首)との対立が激化していた。
ところで、現在の仏独関係は、第2次世界大戦直後に行われた、ドゴール将軍とアデナウアー西独首相(当時)との仏独首脳会談を嚆矢(こうし)とする。ドゴールがパリ近郊の自宅に首相を招待して会談した時、ドゴール家のお手伝いさんが、「(仇敵)ドイツ人の料理なんか作りたくない」と嫌がったという時代である。その仇敵ドイツと二度と戦わず、手に手をとって荒廃した欧州を再建しよう――。それがドゴールの意思だった。
1963年にはエリゼ条約(仏独友好条=仏独協力条約ともいう)が結ばれ、年に2回の首脳会談などが定められた。以来、ジスカール・デスタンとシュミット、ミッテランとコールと、歴代の仏独首脳は左右の党派を超えて友好関係を築いた。1984年に、ミッテランとコールが仲良く手をつないで、深紅のバラの花をベルダンの戦死者の墓にそなえた光景は、仏独の歴史の美しい1ページとして両国民の脳裏に刻まれた。
もっとも、そのミッテランはベルリンの壁の崩壊直後、キエフに飛んでゴルバチョフと会談している。東西ドイツの統一を口では歓迎しながら、「強国ドイツ」の復活を恐れ、ドイツを挟んで「敵の敵は味方」の旧ソ連を頼りにしたわけだ。これはミッテランの外交上の最大の汚点と言われる。
一方のコールも、第2次世界大戦の「戦勝国」に言及した時、フランスを入れるのを忘れ、「コールよ、お前もか」とフランス人を嘆かせた。ドイツ降伏の調印式で、戦勝国側の席に、昨日まで占領していた“敗戦国”のフランスの将軍が座っているのを見て、ドイツ側が心底、驚いたという歴史的逸話があるからだ。
戦後生まれのシュレーダーは1998年にドイツの首相に就任した時、「もはやフランスに借りはない」と宣言して、シラク大統領(当時)にショックを与えた。ドイツはそれまで、ナチの犯罪の“代価”として、黙ってEUの拠出金の最高額も負担してきたからだ。
2004年の中・東欧10カ国のEU加盟で、EUの比重が一気にドイツに傾いたが、それでも、仏独の「良好な関係」が、両国の外交上の最優先事項であることに変化はなかった。仏独中軸で曲がりなりにも欧州統合に向けて歩みを進めてきた。仏独関係が、「理性的結婚」とか「政略的結婚」と言われるゆえんだ。
マクロンは、メルケルの「不出馬宣言」に関し、「欧州の価値を決して忘れず」と指摘したが、マクロンが本当に言いたかったのは、「威厳ある決断」ではなく、この「欧州の価値」だ。つまり、
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