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メルケルの退陣宣言でマクロンの激痩せに拍車?

山口 昌子 在仏ジャーナリスト

二つの州選挙敗北で党内からメルケル批判

 メルケルが今回の決断に踏み切った直接のきっかけは、10月28日のヘッセン州議会でのCDUの敗北だ。その2週間前の10月14日にはバイエルン州でも姉妹政党のキリスト教社会同盟(CSU)が敗退した。この二つの州選挙では、緑の党と、「反難民」「反ユーロ」を標榜する極右政党「ドイツのための選択肢(AfD)」が躍進した。

 メルケルが2015年に発表した「難民100万人受け入れ」が与党敗北の真の理由であることは誰の目にも明らかだ。16年には難民の一人、過激派イスラム教徒によるベルリンの「トラック爆走テロ」で死者11人、負傷者多数が出て、「反難民」「反メルケル」を勢いづかせた。政府内でも、「反難民」のホルスト・ゼーホーファー内相(CSU党首)との対立が激化していた。

選挙戦について記者会見するCSUのゼーホーファー党首(左)とゼーダー・バイエルン州首相(右)=2018年10月12日、ミュンヘン拡大選挙戦について記者会見するCSUのゼーホーファー党首(左)とゼーダー・バイエルン州首相(右)=2018年10月12日、ミュンヘン

ドゴール・アデナウアー会談が嚆矢

 ところで、現在の仏独関係は、第2次世界大戦直後に行われた、ドゴール将軍とアデナウアー西独首相(当時)との仏独首脳会談を嚆矢(こうし)とする。ドゴールがパリ近郊の自宅に首相を招待して会談した時、ドゴール家のお手伝いさんが、「(仇敵)ドイツ人の料理なんか作りたくない」と嫌がったという時代である。その仇敵ドイツと二度と戦わず、手に手をとって荒廃した欧州を再建しよう――。それがドゴールの意思だった。

 1963年にはエリゼ条約(仏独友好条=仏独協力条約ともいう)が結ばれ、年に2回の首脳会談などが定められた。以来、ジスカール・デスタンとシュミット、ミッテランとコールと、歴代の仏独首脳は左右の党派を超えて友好関係を築いた。1984年に、ミッテランとコールが仲良く手をつないで、深紅のバラの花をベルダンの戦死者の墓にそなえた光景は、仏独の歴史の美しい1ページとして両国民の脳裏に刻まれた。

 もっとも、そのミッテランはベルリンの壁の崩壊直後、キエフに飛んでゴルバチョフと会談している。東西ドイツの統一を口では歓迎しながら、「強国ドイツ」の復活を恐れ、ドイツを挟んで「敵の敵は味方」の旧ソ連を頼りにしたわけだ。これはミッテランの外交上の最大の汚点と言われる。

 一方のコールも、第2次世界大戦の「戦勝国」に言及した時、フランスを入れるのを忘れ、「コールよ、お前もか」とフランス人を嘆かせた。ドイツ降伏の調印式で、戦勝国側の席に、昨日まで占領していた“敗戦国”のフランスの将軍が座っているのを見て、ドイツ側が心底、驚いたという歴史的逸話があるからだ。

 戦後生まれのシュレーダーは1998年にドイツの首相に就任した時、「もはやフランスに借りはない」と宣言して、シラク大統領(当時)にショックを与えた。ドイツはそれまで、ナチの犯罪の“代価”として、黙ってEUの拠出金の最高額も負担してきたからだ。

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筆者

山口 昌子

山口 昌子(やまぐち しょうこ) 在仏ジャーナリスト

元新聞社パリ支局長。1994年度のボーン上田記念国際記者賞受賞。著書に『大統領府から読むフランス300年史』『パリの福澤諭吉』『ココ・シャネルの真実』『ドゴールのいるフランス』『フランス人の不思議な頭の中』『原発大国フランスからの警告』『フランス流テロとの戦い方』など。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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