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仙谷由人が亡くなる8日前に私に遺した言葉

新橋のおやじビルに構えた事務所で語った3時間。「中間層は日本の宝だ」

冨名腰隆 朝日新聞記者 中国総局員

仙谷由人氏。政権交代が間近に迫る2009年4月24日。東京・永田町で。

新橋の「おやじビル」で

 JR新橋駅西口前、SL広場の隣にそのビルは建つ。地下1階から4階の商業エリアに居酒屋、喫茶店、ゲームセンター、金券ショップ、雀荘、中国マッサージなどがひしめき合い、混沌とした雰囲気が漂う。

 通称「おやじビル」こと、ニュー新橋ビルが開業したのは1971(昭和46)年。戦後の闇市から発展した木造長屋の商店街「新生マーケット」を一掃する東京都の再開発事業で生まれた。昭和への郷愁を誘う都心に似合わぬ猥雑な風景は、当時の多くの店舗がビルに入って営業を続けた名残でもある。

 エスカレーターを上り、「安いよ、お兄さんどう?」という片言の日本語の呼び込みをくぐり抜けた先に、目指す場所があった。

 仙谷由人元官房長官の事務所である。2012年の総選挙で落選した仙谷氏は、衆院議員になる前に19年続けていた弁護士稼業に戻り、ここに拠点を持った。

 中国の長期休暇である国慶節を利用して一時帰国していた私が、仙谷氏と向き合ったのは10月3日の夕方。肺がんのため、東京都内の自宅で72年の生涯を閉じる8日前のことだった。

ドアは常に開放「閉鎖空間は情報の流れを止める」

 事務所に入ると、すぐに仙谷氏の太い声が聞こえてきた。

 玄関以外のすべてのドアを開放しているので、先客がいることもすぐに分かった。仙谷氏は、政治家時代も議員会館や大臣室のドアを閉めることがなかった。「閉鎖空間は情報の流れを止める。隣にいるスタッフは私が何をしているのか分からないし、私も外の世界が分からなくなる」と理由を聞かされたことがある。

 20分ほど待って、私は先客と入れ替わるように応接室へ入った。「遠いところから、こんな老いぼれのところへ会いに来る必要ないのに」。冗談交じりに出迎えてくれた仙谷氏だが、私は体調が芳しくないことを事前に関係者から伝えられていた。

 聞いていたより元気そうです、と話しかけると仙谷氏の表情が一瞬、曇った。そしてコーヒーを口に含み、たばこに火をつけて1回大きくフーッと吐いた。

「そうでもない。どうやって人生をたたもうか、なんて考えてるよ。仕事も少しずつ減らしてる」

 この日唯一見せた弱気な心は、すぐに笑顔でかき消された。

「いやいや、泰然自若としてますよ。せっかく来てくれたんだ、今日は大いに語りましょう」

「影の首相」「赤い官房長官」

 この日に至るまでを少し振り返りたい。

 仙谷氏の説明に多くは要らないだろう。衆議院の小選挙区制度の導入によって日本政治が目指した政権交代可能な二大政党の誕生は、2009年に一つの到達点に達した。仙谷氏は紛れもなくその立役者だった。

 民主党政権の代名詞でもあったスローガン「コンクリートから人へ」の考案者でもある。鳩山政権で行政刷新相、公務員制度改革担当相、国家戦略担当相、「新しい公共」担当相などを担うと、菅政権でも内閣官房長官、民主党代表代行、官房副長官を歴任した。とかく「決められない」民主党にあって、根回しを怠らず、舌鋒鋭く正論を放つ存在感に、いつしか「影の首相」と呼ばれるまでになった。

官房長官として記者会見に臨む仙谷由人氏=2010年11月10日、首相官邸

 もっとも、その辣腕ぶりが時に混乱も招いた。

 あまりに有名になった、自衛隊を「暴力装置」に例えた2010年11月の国会答弁は、政治学や社会学の世界では定着した学術用語だったが、仙谷氏に「現実政治は言葉の正しさのみでは動かない」という当然の事実を突きつけた。「権力をワシ摑み」「赤い官房長官」などと、週刊誌による仙谷氏へのバッシングが繰り返されたのもこの頃だ。

 私は、当時の仙谷氏を直接は知らない。担当記者として取材するようになったのは、野田政権で民主党政策調査会長代行に就いてからだ。仙谷氏は野田氏を「何がしたいのか分からない」と辛く評価しており、明らかに政権中枢から遠ざけられていた。

 仙谷氏もまた、報道への不信を募らせ記者を寄せ付けない時期だった。よって、最初は話しかけることさえ苦労した。政治取材にも出勤や帰宅を待ち構える「夜討ち朝駆け」が付きものだが、初めて自宅に行った夜に「こんなところまで追いかけてくるな!」と怒鳴られたことをよく覚えている。

 なぜ腰を据えて話せるようになったのかは、正直私には分からない。

 一つ言えるのは、あまり細かなことを質問しなかった。当時の私の関心は、民主党が目指した「国づくり」の設計者たる仙谷氏の頭の中の解析と、多くの政策が実現に至らない国家運営の拙さをどう総括しているのか、であった(民主党政権の失敗の検証は、自民党への政権再交代後にメディアや政治学者によって分析がなされており、ここでは触れない)。

彼はその日、AIへ強い関心を示していた

 仙谷氏との会話は、いつも「最近の関心」から始まる。私が北京から一時帰国し、新橋の「おやじビル」を訪ねたこの日もそうだった。

 「これはすごい世界だわ」。そう言って渡された資料は、仙谷氏が主催する朝食勉強会の講演録。活動は1998年から始まり、政界引退後も年数回のペースで続いてきた。仙谷氏はそれを製本し、記録してきた。

 最後となった9月19日は、まだメモを起こしたA4用紙だったが、よほど興味のあるテーマだったようだ。ゲストはAI(人工知能)研究の第一人者である国立情報学研究所の新井紀子教授。仙谷氏は、資料片手にまくし立てるように語り始めた。

「AIがいったい全体何なのかということで新井先生に話を聞いたんだが、AIは飛躍的に技術進歩している一方で難点があることは分かった。例えば『近くのおいしいイタリア料理は?』という質問と、『近くのまずいイタリア料理は?』で同じ回答になるんだと。つまり読解が苦手らしい。なんだ、じゃあ人間はまだ大丈夫だなと安心していたんだが、スマホ時代の中高生の読解力もまた著しく低下しているそうだ。『中学校を卒業するまでに中学校の教科書を読めるようにするのが、公教育の最重要課題だ』と言われた。これには衝撃を受けた」

 問題意識は、さらに労働分野へと広がる。仙谷氏は手元のiPadを操作し、私の携帯へ添付ファイル付きのメールを送信してきた。「読んでくれ」。外国人労働者の受け入れ拡大に向けた、出入国管理法改正案を巡る新聞や雑誌の記事だった。

「日本の労働力低下をAIで補うという幻想があるが、新井先生によると、まず影響を受けるのは金融や保険などのホワイトカラーだ。政府は気づいているから、単純労働への外国人受け入れに本腰を入れ始めた。だが、問題が二つある。一つは、アジアはどんどん豊かになっており、若い労働力が日本へ来る時代はそう長くは続かないこと。もう一つは、戦後日本を支えてきたサラリーマンたち、つまり良質な『中間の労働者』が消滅していくことで、社会の発展や持続可能性にブレーキがかかることだ。移民社会をやるならコンセンサスが必要だが、安倍政権はそこをごまかしている。結果として、分断社会が生まれやすくなる」

 「中間層の形成は世界共通の課題だ。中国も同じだろう」と仙谷氏は続けた。話題は次第に、私がいま取材している中国へと移っていった。

尖閣諸島付近で起きたあの衝突事件

 仙谷氏と中国を語るうえで、2010年9月7日に起きた尖閣諸島付近の海上保安庁巡視船と中国漁船の衝突事件を欠かすことはできない。この日もそうだったが、仙谷氏は事件の内幕を、対外的に何度か語っている。経過を記しておきたい。

 午前に起きた衝突の第一報が、官房長官の仙谷氏にもたらされたのは午後2時ごろだった。漁船を拿捕し、中国人船長を石垣港へ移送しているとの内容。仙谷氏は素早く外務省や海上保安庁など、関係部門の担当者を官邸に集めた。

 衝突のビデオ映像を見た仙谷氏は、すぐさま海保幹部に「これは証拠として封印したのか」とただした。刑事事件の証拠保全のため、厳重な保管が必要と感じたからだ。船長は翌日、逮捕された。

 司法手続きに沿って事件を処理する必要がある一方、大きな外交問題に発展することは目に見えていた。仙谷氏の頭に浮かんだのは、2004年に起きた魚釣島への中国人不法上陸事件だったという。逮捕された7人は小泉純一郎首相の「大局的な判断」のもと、送検直前に強制送還された。

 送検を決めるまでの72時間以内に釈放すれば、行政(警察)権の判断だという解釈が成り立つが、その後は検察、つまり司法の管轄に移る。仙谷氏は政治解決が難しくなる事態を恐れたが、政権内の意見が一致しないまま、結局中国人船長は公務執行妨害で送検された。

 中国は対抗措置に出た。1千人規模の「日本青年上海万博訪問団」の受け入れを、出発直前に延期。さらに中国河北省でフジタ社員4人が軍施設を撮影したとして拘束された。レアアースの輸出停止の措置も取られた。

 急展開を見せたのは9月24日だった。中国人船長を処分保留で釈放すると那覇地検が発表。仙谷氏は当時の会見で「検察官の総合的な判断」と政治判断をかたくなに否定したが、政界引退後の2013年、時事通信のインタビューで一定の関与があったことを認めた。「(法務)次官に対し、言葉としてはこういう言い方はしていないが、政治的・外交的問題もあるので自主的に検察庁内部で(船長の)身柄を釈放することをやってもらいたい、というようなことを僕から言っている」

「指示はしていない。それだけはやってはいかんと強く思っていた」

 当時のことを、改めて尋ねた。仙谷氏は「指示はしていない。それだけはやってはいかんと強く思っていた」と言い、こう振り返った。

「司法と外交の間に入り込んだ事件の扱いが、これほど難しいのかと思い知らされた。三権分立の複雑なルールを事務レベルで繰り返し伝えたが、共産党がすべてを指導する中国には理解されない。日中は互いのことをまだ全然知らないんだな、と強く感じた」

 仙谷氏は船長の釈放から1週間経った10月1日、外務省の施設で戴秉国国務委員と約45分間、極秘の電話会談をしている。そこで中国側も民主党政権との対話手段がないことに危機感を抱いていた事実を知る。その後、日本国内では衝突の動画が流出し、ナショナリズムの高揚を招くなど混乱続きだったが、水面下では日中双方がパイプ構築へ動き出そうとしていた。

 当時の中国側が何を思い、どう動いたかを私は長らく知る由もなかったが、今年9月、事情を知る中国外交筋から興味深い話を聞いた。仙谷氏に会いに来たのは、それを確認するためでもあった。

当時序列6位だった習近平が要請した「仙谷訪中」

 衝突事件から年が明けた2011年1月、仙谷氏は内閣改造で官房長官を退き、民主党代表代行に就いたものの、3月11日の東日本大震災を受けて、官房副長官として首相官邸に復帰した。その動きを中国から注目していた人物こそ、当時は共産党序列6位の習近平国家副主席だったという。

 翌年に胡錦濤国家主席からポストを引き継ぎ、新たな最高指導者になることが確定的だった習氏にとって、「対日関係をどこまで改善させておくかは政権運営における課題の一つだった」(中国外交筋)という。

 習氏は戴氏らを通じて、仙谷氏に繰り返し訪中を要請した。官房副長官は政府の立場であり、かつ官房長官より身動きが取りやすい。そんな期待もあったという。

 習氏は、2010年8月10日に菅内閣が閣議決定した日韓併合条約発効100年にあたっての首相談話にも関心を寄せていた。「歴史に対して誠実に向き合いたい」「自らの過ちを省みることに率直でありたい」などの表現を高く評価したという。談話作成を主導したのが仙谷氏であるとの情報もつかんでいた。

 歴史認識問題での歩み寄りを契機に日中関係改善を図れないかと考えた習氏側は、仙谷氏に北京入りを要請する一方で、細菌兵器開発のため人体実験が繰り返された旧日本軍「731部隊」の跡地がある黒竜江省ハルビン市や、満州事変の発端となった柳条湖事件の遼寧省瀋陽市などへの追悼訪問も提案したという。

 だが結局、この計画が実現に至ることはなかった。中国外交筋は「仙谷氏が踏み切れなかった」と説明した。

「踏みつけた者は踏みつけられた側のことを忘れ、また踏みつけようとする」

 仙谷氏は、私の取材報告をおおむね認め、こう述べた。

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