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仙谷由人が亡くなる8日前に私に遺した言葉

新橋のおやじビルに構えた事務所で語った3時間。「中間層は日本の宝だ」

冨名腰隆 朝日新聞記者 中国総局員

「影の首相」「赤い官房長官」

 この日に至るまでを少し振り返りたい。

 仙谷氏の説明に多くは要らないだろう。衆議院の小選挙区制度の導入によって日本政治が目指した政権交代可能な二大政党の誕生は、2009年に一つの到達点に達した。仙谷氏は紛れもなくその立役者だった。

 民主党政権の代名詞でもあったスローガン「コンクリートから人へ」の考案者でもある。鳩山政権で行政刷新相、公務員制度改革担当相、国家戦略担当相、「新しい公共」担当相などを担うと、菅政権でも内閣官房長官、民主党代表代行、官房副長官を歴任した。とかく「決められない」民主党にあって、根回しを怠らず、舌鋒鋭く正論を放つ存在感に、いつしか「影の首相」と呼ばれるまでになった。

拡大官房長官として記者会見に臨む仙谷由人氏=2010年11月10日、首相官邸

 もっとも、その辣腕ぶりが時に混乱も招いた。

 あまりに有名になった、自衛隊を「暴力装置」に例えた2010年11月の国会答弁は、政治学や社会学の世界では定着した学術用語だったが、仙谷氏に「現実政治は言葉の正しさのみでは動かない」という当然の事実を突きつけた。「権力をワシ摑み」「赤い官房長官」などと、週刊誌による仙谷氏へのバッシングが繰り返されたのもこの頃だ。

 私は、当時の仙谷氏を直接は知らない。担当記者として取材するようになったのは、野田政権で民主党政策調査会長代行に就いてからだ。仙谷氏は野田氏を「何がしたいのか分からない」と辛く評価しており、明らかに政権中枢から遠ざけられていた。

 仙谷氏もまた、報道への不信を募らせ記者を寄せ付けない時期だった。よって、最初は話しかけることさえ苦労した。政治取材にも出勤や帰宅を待ち構える「夜討ち朝駆け」が付きものだが、初めて自宅に行った夜に「こんなところまで追いかけてくるな!」と怒鳴られたことをよく覚えている。

 なぜ腰を据えて話せるようになったのかは、正直私には分からない。

 一つ言えるのは、あまり細かなことを質問しなかった。当時の私の関心は、民主党が目指した「国づくり」の設計者たる仙谷氏の頭の中の解析と、多くの政策が実現に至らない国家運営の拙さをどう総括しているのか、であった(民主党政権の失敗の検証は、自民党への政権再交代後にメディアや政治学者によって分析がなされており、ここでは触れない)。

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筆者

冨名腰隆

冨名腰隆(ふなこし・たかし) 朝日新聞記者 中国総局員

1977年、大阪府生まれ。同志社大学法学部卒。2000年、朝日新聞入社。静岡、新潟総局を経て2005年に政治部。首相官邸、自民党、公明党、民主党、外務省などを担当。2016年に上海支局長、2018年より中国総局員。共著に「小泉純一郎、最後の闘い ただちに『原発ゼロ』へ!」(筑摩書房)

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