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そして安田純平さんは謝った

誰に対し何を謝ったのか。それはこの国で生きていくための、やむを得ない護身策だった

石川智也 朝日新聞記者

「世間」に「迷惑」をかけたことを詫びねば生息できない国

 阿部謹也らの研究が示しているように、この曖昧模糊とした、正体不明の、主体のみえない、外国語に翻訳できないものこそ、日本人の行動規範であったし、いまだにあり続けている。決して触知も析出もできないが、だれもがその存在を感じ、怯えている。

 その世間に「迷惑」をかけた(これも翻訳しづらい言葉だ)という、如何とも規定し難い事実をもって、そのことを詫びねばこの社会に生息する場を失いかねない、そうした国に我々は生きている。

 いまさらながら、SMAPやTOKIOの「謝罪」がつぶさに見せたもの、そして今回の安田さんの言葉があらわにしたものは、この国の、この社会のありようだった。

 今回も多くのタレントやコメンテーターたちから飛び出した自己責任論。その不当性については「安田純平さんを忘れないで」などで何度も指摘してきたし、もはや目にしたくもない言葉なので【『《「〔(自己責任)〕」》』】などと何重にも括弧に入れて手袋ごしに扱いたいところだが、もう一度だけ論じておく(なお、安田さんの取材の経緯や手法を検証する必要性を私は否定しないし、すべきだと別途論じている。「安田純平さんが帰ってきた」参照)。

 日本人は、繰り返される「自己責任」という言葉にほとんど自家中毒を起こしている。

 自己責任とは本来、本人が「何が起きても誰のせいにもしない。結果を引き受ける」という意思表示をする際に使うものだろうが、第三者が使うと途端に奇妙な意味を帯びる。登山者は入山前に保険加入を、という程度の含意のこともあれば、ひと昔まえの小泉改革や新自由主義隆盛の時代には「官から民へ」「国に頼らず個人で」という掛け声とともにこの語が飛び交った。ジャーナリストが自ら戦地に出掛けた今回のような場合に浴びせられる際、それは「自業自得だ」「税金を使って助ける必要がない」という、溺れた者をさらに棒で叩いて沈めようとする酷薄な非難にしかなっていない。

 自らが被害にも「迷惑」にも遭っていない人間が、なぜかくも強く「責任」を口にするのか。

 「責任」が、原因を帰せるかどうかを問わず結果を引き受けるという意味であれば(理由がどうあれ国家が邦人を保護する義務も「責任」だ)、個人に原因があるとしても、その結果に対する責めを無関係の者も含め複数で負うのが「集団責任」「連帯責任」ということになる。かつて小中学校で盛んに採り入れられた班競争が典型だ。

 「世間」の母体が江戸時代のムラ共同体や「五人組」、戦中の「隣組」の相互監視、同調圧力原理にあることに思い致しても、日本で飛び交う自己責任論とはその実、むしろ集団責任論的な足の引っ張り合いの思考である。それは個を群れの中に融解させ、個人の責任という概念じたいを霧消させてしまう。

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筆者

石川智也

石川智也(いしかわ・ともや) 朝日新聞記者

1998年、朝日新聞社入社。岐阜総局などを経て社会部でメディアや教育、原発などを担当。2018年4月から特別報道部記者。慶応義塾大学SFC研究所上席所員を経て明治大学感染症情報分析センターIDIA客員研究員。共著に「それでも日本人は原発を選んだ」(朝日新聞出版)等

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