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そして安田純平さんは謝った

誰に対し何を謝ったのか。それはこの国で生きていくための、やむを得ない護身策だった

石川智也 朝日新聞記者

 

記者会見の冒頭、頭を下げる安田純平さん=2018年11月2日、東京都千代田区の日本記者クラブ

この国で生きていくための、やむを得ない護身策

 ああ、こうした場面を私たち日本人は何度も何度も見てきたのだ――。そんな奇妙な既視感にとらわれる光景だった。

 3年4ヶ月もの間シリアで拘束されていた安田純平さんが11月2日、帰国後初の記者会見を開いた。冒頭、「ご心配をおかけしたみなさんにお詫びするとともに深く感謝します」「私自身の行動によって日本政府が当事者にされてしまった点についてたいへん申し訳ないと思っています」と述べ、集まった250人ほどの報道陣を前に深々と頭を下げた。

 質疑に入り、安田さんは司会者から「匿名のバッシングや自己責任論があり、ある意味で日本の社会、民度、文化を映し出している。こうした現状への受け止めは」と問われ、神妙な面持ちで「私の行動で日本政府のならびに多くのみなさまにご迷惑をおかけした。批判があるのは当然」「紛争地に行く以上は自己責任、自分自身に起こることは自業自得だと思っている」「外務省にはできることをやっていただいた。なにも不満はなく、本当にありがたいと思っている」と語った。

 2時間40分に及ぶ会見は拘束中の過酷な生活についての説明が大半だったが、直後の民放ワイドショーの報道は、謝罪の言葉があったかどうかと、自己責任論に対する本人の所見にばかり注目した。某番組では「政府の慈悲で救出されて、改心したのでしょう」と述べた女性コメンテーターもいたが、「改心」の語が飛び出した理由は、こうした殊勝な発言が「らしくない」と思えたからだろう。

 ジャーナリストの取材活動を制限するかのような政府の姿勢や、邦人拘束時に巻き起こった自己責任論について、厳しく批判していた安田さんを知る私にしても、彼の素直な謝罪の言葉は意外だった。

 そこまで追い込まれた、とみるより、この国で生きていくための、やむを得ない護身策なのだろうと私は受け止めた。

「騒いだ」のはメディアであり「世間」だ

 それにしても、この「謝罪」は、いったい、誰に対し、何を謝っているものなのだろう。

 紛争地取材の実績あるジャーナリストが、職業である取材・報道のために現地に入り、運悪く拘束された。そのことが、どのような理由で、謝罪を要するほどの「罪」に問われているのだろう。そう考えたところで、デジャヴュに襲われたのだった。そして、なんとも暗澹たる気分になった。

 SMAPの解散危機が最初にスポーツ紙などで電撃的に報じられた2016年1月、メンバー5人が急きょ生放送で「謝罪」の言葉を述べたことがあった。彼らは沈鬱な表情で、口々にこう言った。

「我々のことで世間をお騒がせしました。そしてたくさんの方々に、たくさんのご心配とご迷惑をおかけしました」
「この度は僕たちのことでお騒がせしてしまったこと、申し訳なく思っております」
「たくさんの方々に心配をかけてしまい、そして不安にさせてしまい、本当に申し訳ございませんでした」

 このときも、彼らはいったい何に謝っているのか、そもそも謝る必要があるのか、疑問が募った。

 彼らはまずもって「世間をお騒がせした」と謝罪した。しかし、私たちは「お騒がせ」したのが彼らではないことを知っている。「騒いだ」のはメディアであり、「世間」である。

 今年5月にも、メンバーの一人が強制わいせつ容疑で書類送検されたTOKIOのその他4人が、「みなさまに多大なる迷惑をかけた」「全員の責任」と謝罪会見をした。自分が罪を犯したわけでもないこの4人がなぜ謝る必要があるのか、どんな「責任」があるのか、やはり訝しんだ。しかしこうした会見を開かなければ、おそらく「世間」は許さなかっただろう。

 「世間」とはいったい何か。

謝罪する安田純平さん(左)を取り巻く報道陣=2018年11月2日

「世間」に「迷惑」をかけたことを詫びねば生息できない国

 阿部謹也らの研究が示しているように、この曖昧模糊とした、正体不明の、主体のみえない、外国語に翻訳できないものこそ、日本人の行動規範であったし、いまだにあり続けている。決して触知も析出もできないが、だれもがその存在を感じ、怯えている。

 その世間に「迷惑」をかけた(これも翻訳しづらい言葉だ)という、如何とも規定し難い事実をもって、そのことを詫びねばこの社会に生息する場を失いかねない、そうした国に我々は生きている。

 いまさらながら、SMAPやTOKIOの「謝罪」がつぶさに見せたもの、そして今回の安田さんの言葉があらわにしたものは、この国の、この社会のありようだった。

 今回も多くのタレントやコメンテーターたちから飛び出した自己責任論。その不当性については「安田純平さんを忘れないで」などで何度も指摘してきたし、もはや目にしたくもない言葉なので【『《「〔(自己責任)〕」》』】などと何重にも括弧に入れて手袋ごしに扱いたいところだが、もう一度だけ論じておく(なお、安田さんの取材の経緯や手法を検証する必要性を私は否定しないし、すべきだと別途論じている。「安田純平さんが帰ってきた」参照)。

 日本人は、繰り返される「自己責任」という言葉にほとんど自家中毒を起こしている。

 自己責任とは本来、本人が「何が起きても誰のせいにもしない。結果を引き受ける」という意思表示をする際に使うものだろうが、第三者が使うと途端に奇妙な意味を帯びる。登山者は入山前に保険加入を、という程度の含意のこともあれば、ひと昔まえの小泉改革や新自由主義隆盛の時代には「官から民へ」「国に頼らず個人で」という掛け声とともにこの語が飛び交った。ジャーナリストが自ら戦地に出掛けた今回のような場合に浴びせられる際、それは「自業自得だ」「税金を使って助ける必要がない」という、溺れた者をさらに棒で叩いて沈めようとする酷薄な非難にしかなっていない。

 自らが被害にも「迷惑」にも遭っていない人間が、なぜかくも強く「責任」を口にするのか。

 「責任」が、原因を帰せるかどうかを問わず結果を引き受けるという意味であれば(理由がどうあれ国家が邦人を保護する義務も「責任」だ)、個人に原因があるとしても、その結果に対する責めを無関係の者も含め複数で負うのが「集団責任」「連帯責任」ということになる。かつて小中学校で盛んに採り入れられた班競争が典型だ。

 「世間」の母体が江戸時代のムラ共同体や「五人組」、戦中の「隣組」の相互監視、同調圧力原理にあることに思い致しても、日本で飛び交う自己責任論とはその実、むしろ集団責任論的な足の引っ張り合いの思考である。それは個を群れの中に融解させ、個人の責任という概念じたいを霧消させてしまう。

「自分が当事者になることなんて、だれも考えていない」

 「世間」には主体がない。ゆえに決して責任をとらない。記憶し続けなければならぬ歴史も熱狂した事件もすぐに健忘し、個人が忘れ葬りたいことはしつこく掘り起こし思い出させる(バラエティ番組や週刊誌の「あの人はいま」特集の下世話さ!)。地縁血縁が希薄化した現代、こうした共同体的心性をせっせと補強しているのが日本のメディアだ。というより、日本のメディアこそいまや「世間」に他ならない。

 安田さんの帰国4日後の10月29日、樹木希林さんを起用した宝島社の新聞見開き全面広告が大きな話題になったが、そこに載った樹木さんの言葉にハッとさせられた人も多かったのではないか。

「いまの世の中って、ひとつ問題が起きると、みんなで徹底的にやっつけるじゃない。だから怖いの。自分が当事者になることなんて、だれも考えていないんでしょうね」

 多くの人が、自分でなくて良かった、と安堵しながら、

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