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徴用工判決めぐる「いやな感じ」の正体

内にも外にも戦争被害者への補償に冷淡な日本司法の風土が、日韓対立の背景にある

市川速水 朝日新聞編集委員

韓国の李洙勲駐日大使(右端)に抗議する河野太郎外相=2018年10月30日、東京・霞が関の外務省

「あり得ない」「暴挙」VS「国民感情を刺激」「過剰反応」

 韓国大法院が新日鉄住金に対する韓国人元徴用工への損害賠償を認めた10月30日以降、日韓の間に「いやな感じ」の言動が飛び交っている。

 「1965年の日韓請求権協定で完全かつ最終的に解決済み」と主張する日本は安倍晋三首相がその日のうちに「判決は国際法に照らして、あり得ない」と非難した。

 河野太郎外相は翌31日、康京和(カン・ギョンファ)外相との電話会談で「両国の関係の一番の法的基盤が根本から損なわれた」と申し入れた。同日の自民党部会でも「韓国は国家としての体をなしていない」(中曽根弘文元外相)と批判が渦巻いた。

 河野外相は連日、韓国批判の調子を強め、11月6日の記者会見では「暴挙」と批判した。

 一方、韓国では、判決を伝える大手紙が、裁判官13人中、「請求は認められない」と日本の主張に沿う反対意見を出した裁判官2人を別建てニュースで取り上げ、反対意見の理由だけでなく顔写真やプロフィル、どの大統領が任命したかなど、異様とも思える「詳しい紹介」をした。

 日本側の批判に対応する形で韓国外務省は「日本の責任ある指導者が問題の根源を度外視したまま、我々の国民感情を刺激する発言をしている」「我々の司法府判断に対して抑制が効かない言葉で過剰対応している」とコメントした。

 年内にも開かれる可能性もあった日韓首脳会談がどうも判決が原因で遠のいたらしい……。

日本が最重視する「基盤」そのものが「手抜き工事」だった

 あちこち、何かおかしくないだろうか。

 安倍首相が非難した相手は誰なのだろう。判決を出した韓国大法院ということになるのだろうか。とすると、「2国間の約束があるのに、それに反する判決を出した」ことを批判したのだろうか。他国の司法機関の判決を「あり得ない」と評価する根拠がどこにあるのだろうか。それとも、司法判断の流れに逆らわなかった文在寅(ムン・ジェイン)政権を非難しているのだろうか。

 河野外相の言う「法的基盤」とは日韓基本条約や日韓請求権協定のことを指すが、判決は、請求権協定の文言の「解釈」を論じたもので、「法的基盤」「根本」である協定は揺らいでいない。「完全かつ最終的な解決」に沿う判決を出すべきだという意味で言っているのであれば、この請求権協定には、「何が」最終的に解決したのかが明示されていない。

 そもそも、有償・無償の経済協力という形で請求権協定を決着させた日韓国交正常化交渉は、1910年の日韓併合条約の効力や戦争被害者の処遇などを棚上げして妥結したものだった。この点は先日、この欄で発表した「徴用工判決、日本は『あり得ない』だけでいいのか」でも触れた。

 つまり、日本が最も重要視しているかのように掲げる「基盤」は、基礎工事そのものが「手抜き工事」だったのだ。何も手を加えずに半世紀以上放置した結果、手抜きが表面化して実態に合わないこともあるだろう。

 韓国側の対応も事態を悪化させるばかりだ。メディアを含め、最高裁の戦後補償不要という論理を「親日」のように敵視しているかのようだ。外務省も「国民感情」を前面に出し、ナショナリズムをあおっているように見える。

「訴えるのは個人の自由だが、裁判所は賠償を認めないはず」

 今回の判決文の概要を改めて読んでみた。

 おおざっぱに言えば、「国家同士の終結宣言で蓋(ふた)を閉めてしまった中で、個人は賠償を請求できるかどうか」という、1990年代から日韓両国で論争が始まった今日的な争点だ。そして、「仮に請求権があったとしても実体的権利として賠償を求められるか」という、さらに一段階上の論点を整理している。

 前者の「個人請求権の消滅」の有無に関しては、日韓とも「請求権協定が個人の請求権を消滅させたわけではない」という解釈で一致している。国際的な潮流でもある。

 日本政府も90年代に韓国人戦争被害者が訴えた戦後補償裁判の中で、個人請求権までを否定した例は見当たらない。

徴用工判決を受け、首相官邸で取材に応じる安倍晋三首相=2018年10月30日

 後者については、日本は「国際的な約束でこれらの請求権や債権に基づく請求に応ずべき法律上の義務は消滅し、その結果、救済が拒否されると理解している」と説明している(日本軍『慰安婦』問題解決全国行動への外務省回答)。「理解している」と微妙な言い回しなのは、これは裁判の問題、三権分立の問題なので介入できないという趣旨だろう。

 その通り、日本の司法はこれまで、政府の「理解」と対立するような判決は出してこなかった。

 先の大戦後、旧ソ連・シベリアへ抑留された元軍人らが日本政府へ補償を訴えた裁判に関連して、外務省は国会でこんな趣旨の答弁をしている。

「日ソ共同宣言における請求権の放棄は、国家自身の請求権および国家が自動的に持っていると考えられている外交保護権の放棄ということ。日本国民個人からソ連やその国民に対する請求権までも放棄したものではない…個人が請求権を行使するということになれば、あくまでソ連の国内法上の制度に従った請求権を行使するということにならざるをえない」(山本晴太弁護士の法律事務所HPアーカイブ参照。以下の政府主張内容も)

 この答弁は、裁判の被告である日本政府に賠償の支払い義務はないことを強調したものと理解されている。

 ほかにも「訴えを提起する地位までも否定したものではないが、その訴えに含まれている慰謝料請求などの請求が我が国の法律に照らして実体的な根拠があるかないかということについては、裁判所が判断すること」や「訴権だけと言っていることではなく、訴えた場合に、それらの訴訟が認められるかどうかという問題まで当然、裁判所は判断されると考えている」と、司法を持ち出しながら抗弁するようになった。

 これらを言い換えれば、「訴えるのは個人の自由だが、裁判所は賠償を認めないはずだ」となる。

 実際、一審を除けば、アジアから提起された様々な戦後補償裁判は、門前払いこそないものの、「訴えても認めず」という敗訴の判決が軒並み続いた。

「戦時中の行為に国家は責任を負わない」

 65年日韓協定による「解決」だけでなく、戦時中の行為に国家は責任を負わないという「国家無答責」、権利を行使しないまま一定期間たつと権利が消滅する「除斥期間」も被害者を退ける理屈に使われた。

 慰安婦、軍人・軍属、徴用工、BC級戦犯、軍票など、外国人から提起された裁判は、ことごとく棄却された。

 戦後補償の類型には、(旧植民地を含む)外国からだけでなく「内なる補償」もある。同じ日本人として、サンフランシスコ平和条約などで日本政府が他国に請求権を行使できなくなった代わりに日本政府の責任を問い、賠償を求める訴訟だ。シベリア抑留経験者や空襲被害者を指すが、これらの被害者からの訴えにも日本の司法は冷たかった。そればかりか、「国民のすべてが多かれ少なかれその生命、身体、財産の犠牲を堪え忍ぶことを余儀なくされていたのであって、これらの犠牲は、いずれも戦争犠牲ないし戦争損害として、国民が等しく受忍しなかればならなかった」(シベリア抑留訴訟判決)と「受忍論」を持ち出して訴えを退けた。みんな大変だったのだから、我慢しろという理屈だ。空襲被害者も裁判を起こしたが、この「受忍論」で放置された。

 このように、日本の司法は結果的に行政と「二人三脚」の関係で「内」に対しても「外」にも、戦争被害者への補償は冷淡だった。

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