2018年11月24日
定休日をお借りしての取材だったこともあり、私が入店した直後に若い女性たちが店内を覗き、「あらら、今日はお休みなの」と残念そうに帰っていく姿が見えた。その様子からも、この店が地域の人気店であることが伺える。
ケーシーさんが手がけてくれたのはカレーや野菜の炒め物、漬物、ライスなどが盛られたネパールの定食「ダルバート」だ。豆をベースにしたダルカレーのまろやかな舌触りと、スパイスの辛さが食欲をそそる。強火で焦げ付かないよう手際よく混ぜながら、「カレーと一緒に食べられるように」とキノコや砂肝の炒め物、カリカリに揚げたゴーヤまで次々に仕上げていく。
「故郷の村では家の近くに中学校がなかったので、小学校を卒業してからしばらくは一人暮らしだったんです。自分の身の回りのことは自分でやる。料理もその時に覚えました」というケーシーさん 。ボリュームたっぷりの料理に加え、アチャルと呼ばれる玉ねぎ、生姜、にんにくにクミンシードを混ぜた漬物を添えてくれた。そして辛い食事 にうれしいのが、牛乳とヨーグルトを混ぜ合わせて作るラッシー だ。ケーシーさんが作るラッシーはとろみがあり、飲み物、というよりも、デザートのような感覚で楽しめる。「ほら、もっと食べて」と、お皿が空になる度にケーシーさんがまたドンッとおかずやご飯を盛ってくれる。夢中で頬張る私を見ながら「ネパールではこうして、お客さんを全力でおもてなしするんです」と、少し顔をほころばせてくれた。
ケーシーさん自身はスパイスの輸入販売を手がけ、インド、ネパール料理店や、日本のラーメン屋さんとも取引がある。しかし順風満帆に見える日本での生活も、今に至るまでの道のりは壮絶なものだった。
ケーシーさんは、ネパールの首都、カトマンズから8時間ほど離れた州の、王政派有力家の生まれだ。小学生の時から伝統舞踊を始め、その才覚をめきめきと現していく。10代半ばには、その技術をさらに磨こうとインドへと留学した。帰国後すぐに伝統舞踊の学校を自ら立ち上げ、200人以上の生徒を抱えることとなる。
その傍ら、村の中では王政派を支える若手として、50人以上の若者たちを束ねていた。ところが当時、ネパール国内では王政廃止を訴える毛沢東派との対立が激化していた。1996年に始まった武装闘争は、終結する2006年までの10年間に1万6千人もの犠牲者を出したとされている。
2003年、ケーシーさんの自宅も毛沢東派グループによって襲撃され、焼けてしまった。ケーシーさん自身は既にその時、命の危険を察知し、首都カトマンズの知人の家へと身を寄せており難を逃れた。兄弟たちも欧米諸国へと渡り、散り散りに暮らしていた。父親は既に亡くなっていたため、まだ故郷の別宅に残る母親をより安全な場所へ連れ出そうと、翌年秘密裏に村へと戻っていく。「ところが夜11時ごろ、突然母親宅に何十人もの毛沢東派の人々が押しかけ、私は彼らの拠点へと連行されてしまいました。足の肉が割けてしまうほど棒で殴られたり、指の肉の一部を切り落とされたり、拷問は死を覚悟するほどのものでした」。
活動に協力するので、何とかその前に母親と過ごさせてほしい、と懇願し、なんとか脱出すると、再び首都カトマンズの知人宅を転々としながら身を潜めた。その間、兄弟たちがいるアメリカなどにビザ申請をしたもののことごとく却下され、何とか得られたのが日本ビザだった。日本で伝統舞踊を披露する、という目的で、15日間のビザを得ることができた。
2007年に来日後、いくつかのイベントをこなした後に、入管でビザの延長を申請するも認められなかった。「その時は難民申請の制度があることを全く知りませんでした。帰れば命が危ないかもしれない。仕方なく、ビザが切れてしまったまま、日本に残ることとなりました」。
途方に暮れたケーシーさんを待ち受けていたのは、高架下で寝泊まりする生活だった。「公園の水を飲んだり、何とか身振り手振りで農家のおばあさんに大根を分けてもらって、空腹をしのぎました」。
その後、知人のつてで欧米にいる兄弟たちと連絡がつき、わずかながら送金してもらった資金を頼りに、5~6人のネパール人たちが暮らしていたアパートに転がり込んだ。眠るとき、互いの足が当たってしまうほど、ぎゅうぎゅうの生活だったという。
転機は約3年後、ネパール人たちが集まる祭でのことだった。何人かが集まって「難民申請」について話しているのを、たまたま耳にしたのだ。何とか書類を提出したものの、滞在資格喪失後の難民申請だったため、ケーシーさんの立場は「仮放免」となり、就労や国民健康保険の加入が認められなかった。時折、拷問を受けた傷が痛んだ。けれども、ぎりぎりの生活を送る家族からの仕送りでは通院もままならず、ただ痛みが治まるまで耐えることしかできなかった。
加えて仮放免の間は、月に一度、面談のため入国管理局に赴かなければならない。アパートから入国管理局のある名古屋までは電車で一時間だが、その交通費を工面する余裕さえなかった。片道6~7時間、痛む足を引きずりながら、歩いて通ったこともあったという。携帯電話も持ち合わせていないため、最初のうちは人に道を尋ねて回った。その上、面談は朝9時から、夜8時ごろまで及ぶこともあったという。
それだけの苦労を重ねても、ケーシーさんの難民申請は認められなかった。1年後に却下の判断が下ったため、故郷に残っていた破壊された自宅の写真や、拷問を受けた後に治療を受けた病院のカルテなどを必死に証拠としてかき集め、異議申立を試みる。
結果を待つ間、ケーシーさんの身の回りにも大きな変化があった。同じ村の出身で、名古屋に留学に来ていたムナさんとの結婚だ。実は村にいるときから、ケーシーさんがボランティア活動などに力を注ぐ様子を見て、ムナさんは密かに思いを寄せていたのだという。こうしてかけがえのないパートナーにも支えられ、2015年、ついにネパール人として初めて難民認定を得ることができた。
今でも故郷の味で思い出すのは、何年も食べていない母が作った朝ごはんだという。「どんな料理よりも、母のマトンカレーが一番美味しい」と目を細める。9人きょうだいの7番目だったため、大家族でご飯を囲む時間はいつも笑いが絶えなかったという。
過去の温かな日々を懐かしみながらも、日本で生き抜いていかなければならない。それは単に仕事を続けることだけではなく、仲間たちや日本の隣人たちと手を取り合っていくことでもあった。「今、豊川の駅や川の清掃を、ネパール人のボランティアたちで始めています。1~2カ月に一回ほどのペースですが、名古屋まで活動を広げることもあります」。愛知県のネパール人コミュニティーの会長にも選ばれ、地域のために精力的に活動を続けている。
日本国内では庇護を求めながらも、いまだ難民認定がおりず、不安を抱えながら過ごす人々も少なくはない。「日本は安心して過ごすことができる、優しい人々に出会える国です」と感謝を伝えた上で、ケーシーさんはこう語る。
「何も持たず、ただ逃げてくるしかなかった人たちは、動物ではなく、同じ人間なのです。どうか温かい心で手を差し伸べてほしい」。日本の中では、そもそも難民の存在さえ知らない人々も少なくない。どんな人が難民となっているのか、なぜ逃れてきたのか。もっと教育の場などで、難民となった人々の置かれている状況や現状を分かち合い、理解を広げてほしい、というのがケーシーさんの願いだ。
「ネパール人の申請者に難民はいない」という心ない批判を時折聞くことがある。だからこそ細やかに、耳を傾けたい。「ここにいるよ」という、私たちの隣人の声に。
(この連載は毎月第4土曜日に掲載します)
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