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毛沢東派に連行され、拷問受ける

 ケーシーさんは、ネパールの首都、カトマンズから8時間ほど離れた州の、王政派有力家の生まれだ。小学生の時から伝統舞踊を始め、その才覚をめきめきと現していく。10代半ばには、その技術をさらに磨こうとインドへと留学した。帰国後すぐに伝統舞踊の学校を自ら立ち上げ、200人以上の生徒を抱えることとなる。

 その傍ら、村の中では王政派を支える若手として、50人以上の若者たちを束ねていた。ところが当時、ネパール国内では王政廃止を訴える毛沢東派との対立が激化していた。1996年に始まった武装闘争は、終結する2006年までの10年間に1万6千人もの犠牲者を出したとされている。

 2003年、ケーシーさんの自宅も毛沢東派グループによって襲撃され、焼けてしまった。ケーシーさん自身は既にその時、命の危険を察知し、首都カトマンズの知人の家へと身を寄せており難を逃れた。兄弟たちも欧米諸国へと渡り、散り散りに暮らしていた。父親は既に亡くなっていたため、まだ故郷の別宅に残る母親をより安全な場所へ連れ出そうと、翌年秘密裏に村へと戻っていく。「ところが夜11時ごろ、突然母親宅に何十人もの毛沢東派の人々が押しかけ、私は彼らの拠点へと連行されてしまいました。足の肉が割けてしまうほど棒で殴られたり、指の肉の一部を切り落とされたり、拷問は死を覚悟するほどのものでした」。

 活動に協力するので、何とかその前に母親と過ごさせてほしい、と懇願し、なんとか脱出すると、再び首都カトマンズの知人宅を転々としながら身を潜めた。その間、兄弟たちがいるアメリカなどにビザ申請をしたもののことごとく却下され、何とか得られたのが日本ビザだった。日本で伝統舞踊を披露する、という目的で、15日間のビザを得ることができた。

 2007年に来日後、いくつかのイベントをこなした後に、入管でビザの延長を申請するも認められなかった。「その時は難民申請の制度があることを全く知りませんでした。帰れば命が危ないかもしれない。仕方なく、ビザが切れてしまったまま、日本に残ることとなりました」。

高架下で寝泊まり

 途方に暮れたケーシーさんを待ち受けていたのは、高架下で寝泊まりする生活だった。「公園の水を飲んだり、何とか身振り手振りで農家のおばあさんに大根を分けてもらって、空腹をしのぎました」。

 その後、知人のつてで欧米にいる兄弟たちと連絡がつき、わずかながら送金してもらった資金を頼りに、5~6人のネパール人たちが暮らしていたアパートに転がり込んだ。眠るとき、互いの足が当たってしまうほど、ぎゅうぎゅうの生活だったという。

 転機は約3年後、ネパール人たちが集まる祭でのことだった。何人かが集まって「難民申請」について話しているのを、たまたま耳にしたのだ。何とか書類を提出したものの、滞在資格喪失後の難民申請だったため、ケーシーさんの立場は「仮放免」となり、就労や国民健康保険の加入が認められなかった。時折、拷問を受けた傷が痛んだ。けれども、ぎりぎりの生活を送る家族からの仕送りでは通院もままならず、ただ痛みが治まるまで耐えることしかできなかった。

 加えて仮放免の間は、月に一度、面談のため入国管理局に赴かなければならない。アパートから入国管理局のある名古屋までは電車で一時間だが、その交通費を工面する余裕さえなかった。片道6~7時間、痛む足を引きずりながら、歩いて通ったこともあったという。携帯電話も持ち合わせていないため、最初のうちは人に道を尋ねて回った。その上、面談は朝9時から、夜8時ごろまで及ぶこともあったという。


筆者

安田菜津紀

安田菜津紀(やすだ・なつき) フォトジャーナリスト

1987年神奈川県生まれ。Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル)所属フォトジャーナリスト。16歳のとき、「国境なき子どもたち」友情のレポーターとしてカンボジアで貧困にさらされる子どもたちを取材。現在、カンボジアを中心に、東南アジア、中東、アフリカ、日本国内で貧困や災害の取材を進める。東日本大震災以降は陸前高田市を中心に、被災地を記録し続けている。写真絵本に『それでも、海へ 陸前高田に生きる』(ポプラ社)、著書に『君とまた、あの場所へ シリア難民の明日』(新潮社)。『写真で伝える仕事 -世界の子どもたちと向き合って-』(日本写真企画)。上智大学卒。現在、TBSテレビ『サンデーモーニング』にコメンテーターとして出演中。

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