メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

安田純平さんをめぐる義務と権利と自己責任

三島憲一 大阪大学名誉教授(ドイツ哲学、現代ドイツ政治)

 

安田純平さんに対しては「国や政府に迷惑をかけた」というバッシングがあった。だが、「迷惑」とはいったい何だろうか安田純平さんに対しては「国や政府に迷惑をかけた」というバッシングがあった。だが、そもそも「迷惑」とは何だろうか?

 シリアで拘束されていた安田純平さんが解放され、無事に帰国した途端、予想通りに「自己責任論」が吹き出した。今回はそれ以前のいくつかの人質事件に比べると、強い反撃が予想されたためか、バッシングも少しおとなしいようだが、それでもあちこちで時にはささやかれ、時にはおおっぴらに語られた。

 「だいたい、ああいうところに行くからいけないのだ」「政府が退避勧告を出している地域に立ち入ったのだから、政府がなにかする必要は本当はない」などなど。なかでも一番ひどいのは、「政府と国民に迷惑をかけた」、というものである。だいたい、この「迷惑」という言葉に日本人は一般に弱い。いや弱すぎる。「そういうことをすると誰々に迷惑がかかる」「ひとさまに迷惑をかける」「会社に迷惑をかけて申し訳ない」などなど、子供の頃から「迷惑をかけるな」と刷り込まれている。だが、これについては最後に触れよう。

報道の自由を「許可する義務」と「行使する権利」

 重要なのは、安田純平さんが解放された直後、パリに本部を置く「国境なき記者団」の事務局長クリストフ・ドロワール氏が安堵感の表明に続いて述べた次の言葉だ。「シリアは依然としてハイリスク地域である。紛争のすべての当事者には、戦時を含むいかなる状況においてもジャーナリストによる報道の自由の行使を許可する義務がある」。自由を使うことを「許可する義務」がある、というのだ。逆にジャーナリストたちには、この自由を「行使する権利」がある。報道の自由はいっさいの困難を乗り越えて行使すべき、そして守るべき規範的な実質を持つということである。

 もうこれで明らかだろう。台風やハリケーンのときに大波が襲う堤防や岸辺で強風に逆らって体を前に倒しつつマイクに絶叫するウエザー・ショウ・ビジネスとは違うのだ。ここで波にさらわれたらそれこそ「自己責任」だが、報道の自由はそれとは異なる。

 シリアでどの集団がどの集団と戦っているのか、どの派の背後にイランが、そしてどの勢力の背後にアメリカが蠢(うごめ)いているのかをそらんじて言える人は多くない。しかも状況は日々刻々変化している。それぞれの集団や勢力の公式の、そして隠れた意図や目論見や利害、そして忠誠度は複雑きわまりないようだ。中東通を自称する評論家の話もあまり信用できない。そういう状況で、危険地域に入り、ときには特定のグループと接触し情報を世界に発信しようというのは、「権利」である。

 そしてそれはわれわれのように紛争の当事者でなくともさまざまな理由から関心を持った市民には、自分の意見をまとめるのに大いに重要なことである。グローバル化の今日、世界のどの地域の紛争も我々の生活や政治のあり方に影響を与える。武器輸出についての考え方ひとつをとってもそうだ。報道の自由を可能にするのは、「義務」なのだ。

 だが先の「国境なき記者団」の最近の発表によれば、2018年に入って世界中ですでに63人のジャーナリストが殺されている。特にシリア紛争の初期は激しく、同じ団体の2013年10月の発表では、その2年前の2011年3月に、シリアで反政府蜂起が始まってからわずか2年間でほぼ100人のプロの記者が殺されている。もちろんのこと、特に報道機関がフリー・ジャーナリストに頼る経費節約の構造、そしてそれが彼らに無謀な冒険を誘う問題がひそんでいるが、それはここでは論じない。

ドイツでは自己責任論は皆無

 私が比較的よく知っているドイツでは記者の自己責任論は皆無に近い。2013年にシリアでの数ヶ月の拘束を経て解放されたフリー・ジャーナリストのアルミン・ヴェルツ氏などは、帰国後に、最も重要な放送局のひとつであるドイツ・ラディオのインタビューに出演して、シリア情報を提供している。同時に、拘束されているあいだの、メンタル上のサバイバル技術も披露している。

・・・ログインして読む
(残り:約4362文字/本文:約6026文字)