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憲法改正には関心なし? 若者たちの事情

西田 亮介 東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授

臨時国会の衆院本会議で所信表明演説をする安倍晋三首相=2018年10月24日臨時国会の衆院本会議で所信表明演説をする安倍晋三首相=2018年10月24日

 安倍晋三首相は10月開会した臨時国会で、自民党の憲法改正案を国会に提示する意欲を改めて強調しました。思惑通り改憲論議が加速するのか、見通しはまだ不透明ですが、もし数に物を言わせれば国民投票が実現するかもしれません。そのとき有権者は準備ができているのでしょうか。

 朝日新聞は「フォーラム面」や「声欄」で、改憲を巡る読者の意見を募り、紹介してきました。ところが、若い世代からの反応はいま一つでした。私たちの呼びかけに反応がないのは、なぜなのか。政治とメディアの関係に詳しい西田亮介・東京工業大准教授(社会学)に聞きました。(聞き手 声編集部・吉田晋)

リアリティーを失った戦後の護憲・改憲論争

――若い世代に「一緒に憲法を語ろう」と呼びかけたのですが、投稿がほとんど頂けませんでした。

西田 憲法ができて70年以上の歳月が経過し、今の大半の世代が戦争も、戦後の護憲・改憲論争についてのリアリティーも当然のことながら理解できないでしょう。安保闘争しかり学生運動しかり、60年代末の世界的な反権力のムーブメントしかり。ちなみに80年代生まれのぼくも、経験的にはよくわかりません。

 たとえば今の大学生は、東西冷戦が終わってから生まれた世代です。それどころか、90年代末生まれですから、地下鉄サリン事件やは9・11の時でさえ物心がついていなかったという、ごく基本的な事実が忘れられがちです。東西いずれかの陣営が理性を踏み外したら世界が破滅しうるんじゃないか、世界戦争に日本も巻き込まれるんじゃないか、というリアリティーを世界中が持っていた冷戦の時代は遥か彼方になり、現代の世界はもっと複雑になりました。

 国家と非国家主体の間の緊張関係、世界の警察と思われてきたアメリカの地位の低下、そして中国の台頭。全体の構造がよく分からなくなってきていて、憲法をはじめ「戦後民主主義的なもの」を支えた共通感覚が自明じゃなくなっている、ということは言えるんじゃないでしょうか。であれば、主に年長世代の「常識」を前提にしてなされてきた、あるいはなされている憲法を巡るコミュニケーションが、若者との間に成立しがたくなったとしても何ら不思議ではありません。

ネットがもたらした「共通体験」の減少

――国際情勢や社会状況が変わった以上、仕方がない、と

西田 そのとおりです。くわえて指摘できるのはメディア環境の変化です。インターネットが登場する前は、コミュニケーションの速度が遅く、頻度も少なかった。一般の人が政治や社会のことを知るのは、新聞なら朝刊と夕刊、テレビニュースは朝昼晩と3回タイミングがあったとして、あとは学校や職場の口コミくらいでした。

西田亮介さん西田亮介さん
 ところが、ネットが出てきて以後、四六時中そういった情報に触れるようになった。情報量が増えたのと同時に、接触する頻度も増えています。今だとツイッターやニュースサイトから、24時間365日、プッシュ通知で情報が送られてきます。

 これが意味するのは、「共通体験の減少」です。マスメディアが公共的なコミュニケーションの支配的地位にあった時代には、メディアの共通経験を一定程度あてにできました。たとえばネットがなかった時代には、新聞のオピニオンを見て、賛成か反対か議論できた。「世界」や「中央公論」などの月刊誌を読んで、こんなことが書いてあったと言いながら議論したわけです。保守にしてもリベラルにしても、お互い十分見通せる範囲で、これを見てものを言えば良いという相場観を形成可能だった時代です。

 今、月刊誌や論壇誌は読まれていますかね。おそらく研究者でも、それらすべてに目を通しているという人は少ないんじゃないですか。人文社会科学でさえ、専門分野と論壇の距離がずいぶん遠くなりました。多くの研究者も論壇よりも専門分野への関心を強めています。それどころか、僕と同世代の人文社会科学系の研究者でさえ、新聞を読んでいないという人は少なくない印象です。

 「実は新聞をとっていない」という話は、大学院生のみならず、よく耳にします。一方、ネット上のコミュニケーションには真偽が怪しいものがたくさんあるわけです。そもそも陰謀論やマーケティング意図をもったPR記事は耳目を引きやすいですし、最近ではソーシャルメディア上の「ポストトゥルース」や「シャープパワー」の問題にも懸念が高まっています。

シャープパワーがフェイクニュースを拡散

――シャープパワー?

西田 シャープパワーとは、米大統領選におけるロシアのフェイクニュースの流通や、中国の孔子学院を通じたある種のプロパガンダといった、民主主義国に対する第三国からの世論操作みたいなことを指す概念です。民主主義国で重要視される言論の自由に乗じてフェイクニュースを流通させる、これは必ずしも違法行為とは言えない。けれども、フェイクニュースを参照しながら有権者が投票するとなると、民主主義の基盤が毀損(きそん)されやすくなります。

 このように、ネットを通じた、様々な思惑を持っている人による恣意(しい)的な介入が、多々見られるようになっています。この問題の難しさは、安易に規制すると言論の自由を毀損してしまいかねない一方で、放置すると政治的正統性に疑義が生じかねないところにあります。イギリスのEU離脱や米国の大統領選後の混乱がそれを物語っています。

 日本でも、ネット選挙運動の解禁がなされた2013年に自民党は「トゥルースチーム」という組織を作り、ネット上の言説の分析をしながら、効果的な演説の仕方やネット発信の仕方を研究開発していました。論争的な話題への直接的言及をうまく避けながら、かといって嘘もつかずにうまく演説する方法が、政治の側ではノウハウとして蓄積されるようになってきているのです。

 現在では、他の政党も同種の政治マーケティングに一定のコストをかけるようになってきています。かたや生活者に目を向けてみると、共通体験が乏しくなり、無防備なままで、新しい情報技術を活用しながら高度化していく政治からの動員に屈しやすくなっているように見えます。耳に心地よいメッセージに脊髄(せきずい)反射しやすくなっている、と言えば分かるでしょうか。

政治的判断のための材料が入手できない状況

西田亮介さん西田亮介さん
――そんな自民党が改憲を主導し、それに対する護憲派が掲げるのが「9条を守れ」だけでは、確かに心もとない気もします

西田 冷戦を前提にしていれば、「集団的自衛権を認めてしまうと米国主導の戦争に巻き込まれやすくなるのではないか」という論理は、ある種のリアリティーを持ったことでしょう。しかし現代では、たとえば複雑な国際情勢のなか、集団的自衛権について明確に理解していない人が報道を見て、「我々自身を守る方法を備えることが大事じゃないか」と危機感をもったとしても、それほど不思議ではありません。

 ちなみにですが、集団的自衛権と個別的自衛権の違いを自信をもって説明できるという人は、それほど多くはないと思います。「憲法を壊すな」というメッセージも、それと対になってきた社会情勢や安全保障やメディア環境があって、戦後長くにわたって「なるほど護憲は大事だな」と自明視されてきたはずです。それらの共通の地平が失われてしまったのであれば、護憲のメッセージだけが世代を越えて伝わっていくとは考えられません。

――共通体験はなくなり、みんなに共通の場を提供していた既存メディアも力がなくなり、一方で政治側のプロモーションはスキルが上がっている。国民が政治的判断のために必要な材料を手に入れにくい状況ができつつある、と

西田 ぼくの見立ては、そうです。そして、ネットに特化しがちな若い世代の方がその傾向は強いと思います。

 かつての大学生は「左手に少年マガジン、右手に朝日ジャーナル」。ところが今は、たとえアクセサリーとしてさえ朝ジャを持つといった習慣はない。そもそも、すでに朝ジャは存在していないですが(笑)。それどころか、40代以下の世代は、ほとんど新聞を読んでいる感じがしません。読んでいるという学生も、まず見ないですし……。

政治的社会化のための教育が必要

――処方箋(しょほうせん)はありますか

西田 政治教育の理念と知識、思考の道具立て、さらに必要な学習コンテンツのあり方を、政治から極力独立させたかたちで検討したうえで、政治的社会化のための基本的な機会を、義務教育課程や準義務教育課程に埋め込むことが大切だと思いますね。別な言い方をすると、シチズンシップ・エデュケーション、市民性教育をきちんと用意していくことです。戦後、政治と教育の関係は左右の対立のなかで、こうした教育はタブーとされ、批判のための土台を提供するより、中立であることが重要視されてきました。

 教育空間は政治的に無色透明なものにするということになっているので、おそらく大半の人は、自民党がどういう政党で、過去にどういうことを主張し、どういうことをしてきたのか、ほとんど知らないはずです。共産党、あるいはできたばかりの立憲民主党についても同じでしょう。我々は投票年齢になると、突然、ほとんど戦後史も知らないまま投票に行くことになります。これを変えないといけないと思います。できれば、進学率が90%を越える高校までに。

――一応、社会科の教科書には憲法とか政党政治とか書いてありますが。

西田 もっと具体的な記述が必要です。戦後史についてのおおまかな認識、政治を構成する主体の過去の主張やどんな政党なのかという概略です。例えば自民党の歴史とか業績とか評価とか。もちろん、それらをどのように記述するかという実務上の問題は残りますが……。

 現状では、政治の現状を理解するのに必要な政治的知識を学ぶ機会がない。投票年齢の引き下げに伴って、総務省と文科省が「私たちが拓く日本の未来」というテキストを2015年から配布していて、これで選挙教育は十分というのが、現在の国の立場です。しかし、これは従来の公民的知識を集約しただけで、全く不十分だと思います。ワークショップ部分はユニークですが、政治的リアリティーが全くないからです。

 模擬投票の試みにしても同様です。実際の選挙では、模擬投票のように対立軸が明確に出たりはしません。争点隠しや争点つぶしがなされるくらいですから。むしろ必要なのは、各党が過去に何をやってきたのか、過去の主張はどうだったのかという歴史的な知識です。

 政治教育については、政治から教育現場への圧力と、学校、教師の萎縮も問題になりました。教師の地位利用や支持政党の強要などの「NGリスト」を用意したうえで、それ以外の教育上の創意工夫については、それを擁護する仕組みづくりも必要ではないでしょうか。

教科書の憲法に関する知識では不十分

――改憲論議についてはどうですか。教科書の憲法の知識では判断できませんか。

西田 単なる知識では足りないと思います。三権分立や憲法の精神が今の社会とどう結びついているのか考える想像力は、そう簡単には養われないと思います。教科書の記述を、自分の生活と関係あると思いながら読むという人は、少数でしょう。

――例えば「表現の自由」を考えれば、戦前は思想統制があったという知識は大方が持っているだろうから、憲法19条(思想の自由)や21条(表現の自由)が大事だと分かるのでは……

西田 考えなければいけないのは、大前提として「いまどきの日本で言論弾圧なんてことが起こるわけない」と思う人がいたとしてもおかしくないということです。憲法と現実との間の距離が遠くなっているように見える今、両者のあいだにいくつか補助線を引いてあげないと、若い世代にはなかなか「自分事」として理解しにくいのではないでしょうか。

 これまでなら、「憲法を壊すな」とか「戦争に巻き込まれる」とかいったメッセージがその距離を埋めていたのかもしれませんが、冒頭述べたように、現代においてはそれも十分機能していないように見えます。年長世代は自分たちのリアリティーに基づいてそう言っているわけですが、それを共有できない若年世代には通用しないんじゃないでしょうか。

「政治はいつも増長しようとしている」

財務省の公文書改ざんに対し、首相官邸前で抗議のメッセージを掲げる人たち=2018年3月12日財務省の公文書改ざんに対し、首相官邸前で抗議のメッセージを掲げる人たち=2018年3月12日

――どんな補助線であれば?

西田 「政治はいつも増長しようとしている」というメッセージは有効だと思います。最近の公文書の改ざん、PKO日報の隠蔽(いんぺい)、厚労省の統計データの「ミス」。古くは沖縄返還密約などもあります。ともすれば、我々の政府は噓(うそ)をついたり、隠蔽したりします。

 こうした事実を知ると、情報公開は重要だとか、憲法を使って政府に統制をかけておかないとインチキされかねない、と感じられるはずです。現代の日本ではいささか抽象的になってきた感がある「平和」を強調するより、誰もが想起しやすく、また合意しやすい具体的な事例を出発点にしながら考えていった方が、憲法の必要性が多くの世代に理解しやすくなるのではないでしょうか。

――自民党改憲4項目の中では、どうしても9条が焦点になりますが、戦後の共通体験のない若い人は、その議論から引いてしまう、ということですか。

若い世代は改憲に肯定的?

西田 最近のメディアの世論調査などを眺めていると、安全保障環境が変化する中で、若い世代は改憲に対して、どちらかというと肯定的な傾向にあるようにも見えます。変化や改革、イノベーションが、過剰に肯定的に捉えられる時だからかもしれません。9条を変えよう、と主張する自民党がイノベーティブに見えているのかもしれませんね。

――自民党のこれまでの主張や、自民党改憲草案の全貌などを知っていれば、イノベーティブとは違うかな、と

西田 ちょっと違うかな、と感じると思うんです。もうひとつ忘れてはいけないのは、改憲派は信じられないくらい気長に取り組んできた、ということです。60年前に政府の中に憲法調査会が置かれてから、国会に憲法調査会・審査会ができて、国民投票法を成立させ、一歩一歩進めてきました。

 国民投票法がない時代は手続き法がないわけですから、改憲は何の現実味ももたなかった。だから、護憲派は悠長に構えていられたのですが、今は逆ですよね。法律ができて、衆参の議席数を考えると、いつでも改正を発議できる状態になった。改憲派は当然ずっと「変えたい」と思ってきたわけなので、状況に対してアップデートしてきているのに対して、護憲派はその努力をさぼってきたようにも見えます。

改憲が議論される条件とは

西田亮介さん西田亮介さん
――先生は改憲派ですか?

西田 ぼくは、正直、護憲でも改憲でもどっちでもいいと思っています。ただし条件があって、先程述べたような憲法を巡る議論をするに足る十分な環境が整った後であれば、です。

 今の状況では、護憲の側の主張、例えば自衛隊違憲論などには現実的に考えてちょっと厳しいものがある。では改憲派はというと、現状の自民党案などを見ていると、現行憲法より立憲的な改憲になるとはとても期待できず、ますますある種の規律が緩んでいくでしょう。それは好ましくないと思います。なにより、両者がかみ合った議論をしていません。

 さらに言うと、このような現状のもとでの改憲は、現行憲法に対する社会のなかの共通感覚がないままに、さらに変わっていくことを意味しますから、日本がどのような社会を目指すのかという理想に対するコンセンサスや正統性が失われてしまう懸念があると思います。

 つまり、大半の人が、「どっちでもいいから好きにやって」という感じで憲法が変わってしまいかねず、憲法の正統性への疑義は残り続けることになるのではないでしょうか。これまでの日本社会は、経済的にそれなりに成功してきたので、憲法に対する疑義や矛盾もうまい具合に覆い隠されてきましたが、「ポスト平成」はどう考えても右下がりの時代になりますから、それらがむき出しになってしまいかねません。

 今まで述べてきた条件が穴埋めされること、すなわち、社会において憲法と立憲主義に関する十分な理解がなされ、戦後史の適切な知識と認識の普及が達成された後ならば、今の憲法を遵守(じゅんしゅ)していくのもよし、時代にあわせて適切に改憲を選択していくもよし、だと思います。

――国民が選んだものを信じられると

西田 そうです。ただ、どういう状態になればいいのかということを、具体的かつ定量的に言明するのはかなり難しいですけどね。そしてそれには長い時間がかかる。

 憲法はそれを支える社会、政治、教育、メディアなどの下部構造、憲法環境といってみてもよいかもしれませんが、それと対になって機能しています。憲法本体はともかく、この下部構造をどのようにデザインし、維持していくのかという議論を、我々の社会は戦後の一時期を除くとほとんどしてきませんでした。やや時間が経ってしまいましたが、いまからでも考えてみる価値はあるのではないでしょうか。

 言い方を変えると、短期的には現行憲法は変えるべきではない、とも思います。先ほどの義務教育に適切な政治教育を埋め込んだとしても、その世代が社会のマジョリティーになるにはかなり時間がかかる。その後でいいのではないでしょうか。

新聞は現状を整理し歴史的に解説せよ

――私たち新聞にできることはありませんか

西田 教育は効果が出るまで時間がかかりますが、メディアは今の世代に広くメッセージを投げかけられる即効性を持っています。漢方薬と西洋医学みたいな役割分担になるでしょう。特にこれから速報的役割をネットに譲ることがほぼ確実視される新聞には、現状を整理し、歴史とひもづけて解説する役割を期待したいです。

 それは、かつて雑誌が担っていた役割ともいえます。そういう記事はネットメディアはあまりやりませんから、新聞社の強みはそういうところにあるんじゃないでしょうか。ただし、「共通のものを共有している人」や、特定の新聞読者共同体の中でしか共感を得ることができないエッセイみたいな記事ではだめで、だれでも論理的に納得できるデータ、エビデンスに基づいたコンテンツが求められていると思います。

――それを、新聞を読んでくれない若者に届けるには?

西田 う~ん……分かりません。ネットニュースのプラットフォーム企業と協力して、届ける役割はプラットフォーマーに任せるとか……。いずれにせよ、これからの時代、「共通経験」を作るのは難しい作業になりますし、ほとんど実現できる見込みもありません。何しろ、みんなが何を見ていのかさえもう分からないわけですから。

 ツイッターのアプリを入れていても、見ているものはバラバラ。政治関連アカウントをフォローしていなければ、ツイッターを使っていても政治の情報は届かないですよね。だけど今後はますますネットがメディア接触の中心になっていく。これは、どうやったって避けられません。であれば、困難だとしてもネット中心の「公共圏」を構想し、試行錯誤していくほかないのではないでしょうか。