2018年11月18日
戦後日本外交の最大の懸案のひとつ、ロシアとの平和条約締結に向け、安倍晋三首相が急ぎ足だ。それを妨げてきた北方領土問題をどう解くのか。そこに落とし穴はないか。
「1956年の共同宣言を基礎として平和条約交渉を加速させることを合意しました」
「私とプーチン大統領のリーダーシップの下、平和条約交渉を仕上げていく決意です」
11月14日、シンガポール。国際会議の場でロシアのプーチン大統領との会談を終えた安倍首相は、記者団を前にそう語った。
終戦直後にソ連に占領され、日本が返還を求めてきた北方領土は、歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島の「4島」からなる(地図)。56年宣言には、このうち歯舞・色丹の2島を平和条約を締結した後、日本に「引き渡す」と記されている。これを実現しようというわけだ。
そもそもなぜ、これがその後ずっと実現せず、いま安倍氏が「決意」を語るのか。そこに北方領土問題の根深さがある。
56年宣言には国後・択捉への言及はない。4島返還にソ連が応じなかったからだ。当時は冷戦のまっただ中。日本は、ソ連との戦争状態を終わらせ、ソ連を盟主とする社会主義陣営から日本の国連加盟に支持を得るため、歯舞・色丹を「引き渡す」だけの明記で妥協した。
その後、ソ連は米軍の日本駐留を理由に、領土問題については「解決済み」までいったん後退。だがソ連崩壊後の1993年、日本はロシアと首脳間で「東京宣言」をまとめ、「4島の帰属の問題を解決して平和条約を結ぶ」という目標を共有するところまでこぎつけた。
こうした経緯をふまえると、安倍氏が「56年宣言を基礎」と強調し、平和条約締結を急ぐことに伴うリスクが浮かび上がる。すなわち、国後・択捉の返還をあきらめることにならないか。さらに言えば、安倍氏の「リーダーシップ」による今回の政治決断が大局観を欠き、国益を損じないかということだ。
実際、これまで23回を数える安倍・プーチン両首脳の会談が熱を帯びる一方で、早くもそのリスクが顕在化している。
「56年宣言を基礎」にしたつばぜり合いはすでに始まっており、ロシアはハードルを上げている。日本は歯舞・色丹の返還を前提として国後・択捉の議論に持ち込みたいところだが、プーチン氏は、歯舞・色丹でまだ大いに議論の必要ありという姿勢を示しているのだ。
安倍氏と会談した翌日の11月15日、プーチン氏は記者会見で56年宣言について、「(歯舞・色丹の)2島は『引き渡す』が、どちらの主権になるかは触れていない」と語った。
例えば本土復帰前の沖縄は、主権は日本にあるが、米国の施政下にあった。そんなイメージをプーチン氏が抱いているかどうかは定かでないが、日本の立場からはほど遠い。菅義偉官房長官は16日の記者会見で「歯舞・色丹が返還されれば、当然日本の主権も確認される」とクギを刺した。
プーチン氏には、歯舞・色丹を日本に「引き渡」せば、そこで米軍が活動するのではないかという強い懸念がある。首相周辺によると、これまでの首脳会談でプーチン氏はそう語り、安倍氏は否定したというが、この問題は安倍氏とプーチン氏の信頼関係では済まされない難しさがある。
というのも、日米安全保障条約6条で、米軍は日本国内のどこでも「極東の平和と安全」のために活動できることになっているからだ。日米地位協定2条は、米軍が使う施設や区域ごとに日本の同意が必要とは定めてはいる。だが、歯舞・色丹での活動に日本は同意しないということを、安倍氏の言葉だけでロシアは信用するだろうか。
確実な保証は、日米間の文書で、「歯舞・色丹は安保条約6条や地位協定2条の例外」と確認することだが、それは日本にとって難しい。冷戦終結後も米国と様々な火種を抱えるロシアに配慮して日本国内で米軍の活動を制限すれば、日米同盟が揺らぎ、安保体制を弱めかねないからだ。
56年宣言で「引き渡し」が明記されている歯舞・色丹をめぐってすら、交渉は難航しそうだ。そうなれば、明記されていない国後・択捉についても交渉の厳しさがさらに増すのは必至だろう。
現在、日ロともに国後・択捉の主権を主張しているが、実効支配しているのはロシアだ。日本が解決を急げば、よくて痛み分け、悪ければロシアに有利な形で決着することになるだろう。
もし国後・択捉の帰属が日本に有利な形で決まるとすれば、それはプーチン氏が中国の浸透を懸念する極東・シベリアでの開発で、日本が支援に踏み込むなど、北方領土以外の分野で日本がロシアにかなり譲った場合の見返りとしてだろう。
手っ取り早いのは、「56年宣言を基礎」にすると強調する一方で、「4島の帰属の問題を解決して平和条約を締結する」という93年の東京宣言の「解決」の解釈を緩めることだ。平和条約締結で歯舞・色丹は「引き渡」され、国後・択捉はすでに合意済みの共同開発を進めながら継続協議にするといった手が考えられる。
しかし、その手には反論が噴出するだろう。「それなら56年に平和条約が結べたではないか。60年以上も続けた外交努力は何だったのかということになる」と。対ソ・対ロ外交に腐心してきた外務省幹部らがずっと語ってきたことだ。
そうした葛藤や批判を一身に引き受け、最終的な政治判断をするのが首相の務めとも言える。だが、平和条約締結を急ぐ今の安倍氏を見ていて思うのは、果たして北方領土をめぐるこうした難題を包摂して方向付ける戦略を持ち、示せているのかということだ。
ここで言う戦略とは、国内向けには、国民の心に響くような日ロ関係の将来像と言っていい。
安倍内閣が2013年につくった日本初の「国家安全保障戦略」がある。A4で32枚の戦略の中で、ロシアという言葉が出てくるのはわずか一段落。安全保障とエネルギー分野などで協力し、アジア太平洋の安定のために連携すると述べ、北方領土問題については「4島の帰属の問題を解決して平和条約を締結する」とする東京宣言が引かれているだけだ。
こうした抽象的、断片的な説明で、領土問題を乗り越えて築こうとする日ロ関係の将来像を、日本国民にどうイメージしてほしいというのだろう。
内閣府の昨年の世論調査では、日ロ関係の発展を重要と思う人が8割近くにのぼる。ただ、日ロ関係について良好だと思わない人も6割を超え、冷戦期の日ソ関係より若干減った程度だ。平和条約締結を急ぐ過程で妥協ばかりが目立ち、日ロ関係発展への期待がしぼむなら、国民の視線は厳しくなるだろう。
日ロ平和条約締結に向けて戦略が必要だと指摘する時のもう一つの含意は、そこに国際社会の評価に耐える日本の外交方針が貫かれているのかということだ。
日本は中国による沖縄県の尖閣諸島周辺などへの海洋進出を、「力による現状変更」と批判しているが、同じ文脈でロシアの14年のクリミア併合を「明白な国際法違反」として経済制裁を科した。また、14年のウクライナ危機でロシアが示したサイバー攻撃能力は、日本が今年末に防衛大綱を改定する主因の一つとなっている。
一般論として、国家間で平時に領土問題を解決するには妥協が必要だとしても、日本がなぜいま、そんなロシアと近づくために、戦後最大の外交課題のひとつである北方領土問題で譲歩を急ぐのか。それは日本という国家のどのような意思の表れなのかを、安倍氏は明確に語れるだろうか。
返還後の歯舞・色丹で日米安保条約に基づき米軍の活動を認めることについては、否定的な安倍氏と肯定的な谷内正太郎・国家安全保障局長の齟齬(そご)が露呈している。ここにも、米ロのはざまで北方領土をどう扱うかに関する日本の戦略の欠如が見てとれる。
「戦後70年以上残されてきた課題に、私とプーチン大統領の手で終止符を打つ」という意気込みは、為政者の責任感としてはわかる。だが、世界の動きを見極め、国益を最大化する戦略を練り、外交で拙速を避けるのもまた、為政者として重大な責任であろう。
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