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安倍首相が北方領土に前向きな歴史的な必然

自民党の歴史を振り返ると浮かび上がる憲法と北方領土へのこだわりのワケ

小宮京 青山学院大学文学部准教授

吉田系にとって不愉快な自民党結党

自由民主党の新党結成大会で万歳をする参加者たち= 1955年11月15日、東京・神田の中央大学講堂拡大自由民主党の新党結成大会で万歳をする参加者たち= 1955年11月15日、東京・神田の中央大学講堂

 かつて宮澤喜一は、自民党結党を吉田系の政治家にとっての「敗戦」だったと表現したことがある(宮澤喜一「私が見た『日本の戦後』 権力の中枢で起きていたこと」田原総一朗責任編集『オフレコ! Vol.2』〔アスコム、2006年〕所収)。宮澤は池田蔵相の秘書官を務め、吉田首相の謦咳(けいがい)に接した、吉田の系譜に位置づけられる政治家である。

 宮澤はまた、自民党結党について、次のような回想も残している。中央大学講堂で開催された自民党結党大会にからみ、「私は結党記念の党大会に行かなかった。池田さんも出席しなかったと思う」と語っている(「元首相宮沢喜一氏(11)宏池会――池田さん中心に発足(私の履歴書)」『日本経済新聞』2006年4月12日朝刊)。

 ただし、これは事実に反する。当時の「朝日新聞」は、「舞台の向って右スミに、池田勇人、益谷秀次、林譲治などという人々が、浮かぬ顔でだまりこくって身を寄せ合っている」と報じた(「「自民党」結成大会を見る」朝日新聞1955年11月16日朝刊)。鳩山一郎首相や岸幹事長がスポットライトを浴びるなか、吉田系の池田や益谷、林らは出席はしたものの、隅っこに追いやられていた。

 ことほど左様に、吉田系の政治家にとって、自民党結党は不愉快な記憶であった。
さらに、保守合同した自由党と日本民主党の所属議員のうち、吉田茂元首相、吉田に殉じた佐藤栄作、佐藤に殉じた橋本登美三郎の3名の代議士は、自民党に参加しなかった。これもまた、自民党の原点が「反吉田」であることを裏書きするだろう(小宮京『自由民主党の誕生』木鐸社、2010年)。

憲法改正が頓挫し日ソ国交回復に注力

 ところで鳩山一郎政権は、憲法改正と日ソ国交回復の二つを追求した。反吉田路線の一環として、占領下に「押し付けられた」憲法を改正することと、「向米一辺倒」(対米一辺倒)を是正するためにソ連との国交回復することを、企図したのである。

 だが、憲法改正の目論見は早々に頓挫した。1955年2月に解散総選挙を実施した結果、野党が衆議院の3分の1の議席を確保したからである。これにより改憲の発議すら不可能となった。

 かわりに鳩山一郎政権が注力したのが、日ソ国交回復であった。

 日ソ国交回復の目的はいくつかある(北岡伸一『自民党』中公文庫、2008年、76‐77頁)。主要なものを取り上げてみる。

 第一にシベリアに抑留された人々を帰国させるためという、人道目的である。近衛文麿の息子の文隆はじめ、多くの日本人が抑留されていた。

 第二に、ソ連との関係正常化の重要性である。吉田はアメリカを中心とした西側との講和を優先させたため、ソ連はサンフランシスコ講和条約に調印しなかった。日ソ間には北方漁業の問題も存在したし、日本が国連に加盟したくても常任理事国のソ連が反対すれば加盟できない。国連加盟を実現するためにもソ連との国交回復が必要と考えられた。

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筆者

小宮京

小宮京(こみや・ひとし) 青山学院大学文学部准教授

東京大学法学部卒業。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。博士(法学)。専門は日本現代史・政治学。桃山学院大学法学部准教授等を経て、2014年から現職。著書に『自由民主党の誕生 総裁公選と組織政党論』(木鐸社)、『自民党政治の源流 事前審査制の史的検証』(共著、吉田書店) 『山川健次郎日記』(共編著、芙蓉書房出版)、『河井弥八日記 戦後篇1-3』(同、信山社)など。