平成政治の興亡 私が見た権力者たち(4)
2018年11月24日
1991(平成3)年11月に発足した宮沢喜一政権は、海部俊樹前政権がやり残した国連平和維持活動(PKO)に自衛隊を参加させるための法案(PKO協力法案)という宿題を抱えていた。
この法案は、海部政権で国連平和協力法案が頓挫したのを受けて、自民、公明、民社3党が歩み寄ってまとまった。宮沢政権での成立は確実と見られていたが、社会党などが強く反発。12月までの臨時国会では、衆院は通過したものの、参院で継続審議扱いとなった。原因は、最大派閥で国会運営を仕切っていた竹下派が「お手並み拝見」を決め込み、宮沢首相への協力を見合わせていたことだった。
当時、竹下派は竹下登元首相に近い小渕恵三、橋本龍太郎、梶山静六各氏らのグループと、金丸信氏に近い小沢一郎、羽田孜、渡部恒三各氏らのグループに割れ始めていた。宮沢首相は幹事長に竹下派の綿貫民輔氏を起用。綿貫氏は中立組で、派閥全体を代表していたわけではない。国会対策委員長には宮沢派の増岡博之氏が就いていたが、野党とのパイプは細く、折衝は進まなかった。
このため、宮沢氏は92年1月、党の布陣を強化。金丸氏を副総裁に据え、国対委員長には梶山氏を起用した。その効果はさっそく表れ、PKO協力法案は社会党が徹底抗戦したものの6月には成立。自衛隊は、国連活動の一環とはいえ、発足以来、初めて海外に派遣されることになった。当時、官房長官だった加藤紘一氏は成立直後、私にこう語った。
「ハト派の宮沢さんだから、中国などアジア諸国も安心して自衛隊の海外派遣を受け入れてくれた。タカ派の政権ならできなかったことだ」
92年9月、自衛隊は初めてのPKO任務を受けてカンボジアに派遣される。
92年夏の参院選では、細川護熙・前熊本県知事が率いる日本新党が初登場。細川氏や小池百合子氏(後の東京都知事)ら4議席を得た。社会党が伸び悩み、自民党は善戦。宮沢政権は安定軌道に入るかと思われた。その矢先に、政界を揺さぶる事件が発覚する。
8月22日、朝日新聞が朝刊で「金丸氏側に5億円」と報じた。当時、東京佐川急便の渡辺広康前社長が東京地検特捜部に特別背任容疑で逮捕され、債務保証によって得た巨額の資金を政治家にばらまいていた疑惑が発覚。金丸氏への5億円の資金提供も、その一部だった。
8月27日、金丸氏は記者会見をして、5億円を「陣中見舞い」として受け取ったことを認め、副総裁と竹下派会長の辞任を表明する。政界は大混乱に陥った。宮沢政権を支える最大の実力者の金権体質が露呈し、政権は支柱を失った。さらに、最大派閥竹下派の主導権争いが始まった。
金丸氏への資金提供は、刑事事件としては政治資金規正法違反の罰金20万円で決着するが、世論の反発は弱まらない。東京・霞が関の東京地検の正面にある「検察庁」の表札にペンキがかけられる事件も起き、検察批判が高まった。
竹下派では、金丸会長―小沢会長代行が当面存続することになったが、与野党から金丸氏の衆院議員辞職を求める声が強まった。10月14日、金丸氏は議員辞職を表明。これを受けて、竹下派の後継会長をめぐる抗争が熾烈(しれつ)になった。
構図は小沢対反小沢。小沢氏が「自分は会長代行として責任がある」として羽田孜氏を後継会長に推すと、反小沢グループは小渕恵三氏で結集。衆院では小沢グループが優勢で、参院側も同調するかに見えた。
両グループの多数派工作が激化する中、私は参院竹下派の中心人物である井上孝氏を国会内の事務所で取材していた。建設省(現・国土交通省)で事務次官を務め、霞が関だけでなく建設業界にも影響力のある竹下派幹部だった。ちょうど、その時、小沢一郎氏から電話が入った。
「衆院では我が方が多数を握った。井上先生も羽田さんでよろしく」。井上氏の説明によると、小沢氏はそう伝えてきたという。しかし、井上氏は「残念ながら、期待に添えない。小渕さんを支持する」と応えた。
井上氏をはじめ、参院竹下派は雪崩を打って小渕氏支持に回った。竹下氏自身が参院議員に手を回したこともあるが、井上氏は「小沢君の手法は危なっかしい。官僚出身者が多い参院竹下派は、小沢君には乗れない」と説明していた。「霞が関の論理」は、「改革」を唱える小沢氏より「調整型」の竹下氏を選んだのである。
12月、宮沢首相は内閣改造・自民党役員人事に踏み切り、幹事長を綿貫民輔氏から竹下派で反小沢勢力を束ねた梶山静六氏に交代させた。梶山氏は、茨城県議を経て小沢氏らと同じ1969年に衆院初当選。田中角栄内閣では、当選2回ながら官房副長官に抜擢(ばってき)された。自治相、通産相などを経験して実力をつけ、小沢氏のライバルとなってきた。
当時、梶山氏からこんな話を聞いた。「壟断(ろうだん)という言葉を知っているか。独り占めすることだ。小沢は権力を壟断する政治家だ。あいつに権力をとらせるわけにはいかない」。小沢氏への強い敵対心を感じた。
年が明けて93年。当初予算案が衆院を通過した3月6日。土曜日だった。私たち朝日新聞政治部の仲間は、政局が一区切りついたと思って、東京・新橋の焼き肉屋で夕食を食べていた。そこに、「事件」の連絡が来た。東京地検特捜部が金丸前自民党副総裁を脱税容疑で逮捕したのだ。自宅や事務所からは日本債券信用銀行の債券「ワリシン」や金の延べ板が大量に押収され、脱税額は50億円にのぼった。
焼き肉は中断。一斉に取材に戻った。金丸前副総裁は、大手建設会社(ゼネコン)などから多額のリベートを受け取り、債券や金の延べ板にして隠し持っていた。自民党と竹下派の腐敗がここまで進んでいたことに気づかなかった我が身を恥じた。
政局は緊迫する。宮沢首相への批判はいっそう強まり、自民党内では、羽田派や若手議員を中心に政治改革を求める声がさらに強まった。並行して財界や学会でも、小選挙区制導入を軸とする政治改革が叫ばれた。亀井正夫・住友電工相談役や佐々木毅・東大教授らが「民間政治臨調」を設立し、政治改革を求めた。
小沢一郎氏は新聞のインタビューなどで「改革派と守旧派の戦いだ」と表明。宮沢首相や梶山幹事長を守旧派と位置づけて批判していた。朝日新聞政治部内でも、政治改革をめぐる議論が続いた。
若手記者の間では「政治腐敗の問題を選挙制度の問題にすり替えるのはおかしい」という意見が多かったが、ベテラン記者の間では「小選挙区制導入が必要」という考えも出ていた。中選挙区制による派閥政治の限界を実感していたためだろう。
若手の一人だった私自身も悩んだ。小選挙区制になれば政治が良くなるとは限らないが、金丸事件に見られたような腐敗や、宇野・海部政権のような「二重権力」政治の構造は正さなければならないとも感じていた。
自民党内の政争は、私たちの議論を待ってくれなかった。
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