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最大派閥の権力闘争で崩壊した宮沢政権

平成政治の興亡 私が見た権力者たち(4)

星浩 政治ジャーナリスト

「日本」と揮毫する宮沢喜一首相=1991年11月7日、首相官邸拡大「日本」と揮毫する宮沢喜一首相=1991年11月7日、首相官邸

「ハト派の首相だからこそできた」自衛隊の海外派遣 

 1991(平成3)年11月に発足した宮沢喜一政権は、海部俊樹前政権がやり残した国連平和維持活動(PKO)に自衛隊を参加させるための法案(PKO協力法案)という宿題を抱えていた。

 この法案は、海部政権で国連平和協力法案が頓挫したのを受けて、自民、公明、民社3党が歩み寄ってまとまった。宮沢政権での成立は確実と見られていたが、社会党などが強く反発。12月までの臨時国会では、衆院は通過したものの、参院で継続審議扱いとなった。原因は、最大派閥で国会運営を仕切っていた竹下派が「お手並み拝見」を決め込み、宮沢首相への協力を見合わせていたことだった。

 当時、竹下派は竹下登元首相に近い小渕恵三、橋本龍太郎、梶山静六各氏らのグループと、金丸信氏に近い小沢一郎、羽田孜、渡部恒三各氏らのグループに割れ始めていた。宮沢首相は幹事長に竹下派の綿貫民輔氏を起用。綿貫氏は中立組で、派閥全体を代表していたわけではない。国会対策委員長には宮沢派の増岡博之氏が就いていたが、野党とのパイプは細く、折衝は進まなかった。

 このため、宮沢氏は92年1月、党の布陣を強化。金丸氏を副総裁に据え、国対委員長には梶山氏を起用した。その効果はさっそく表れ、PKO協力法案は社会党が徹底抗戦したものの6月には成立。自衛隊は、国連活動の一環とはいえ、発足以来、初めて海外に派遣されることになった。当時、官房長官だった加藤紘一氏は成立直後、私にこう語った。

 「ハト派の宮沢さんだから、中国などアジア諸国も安心して自衛隊の海外派遣を受け入れてくれた。タカ派の政権ならできなかったことだ」

 92年9月、自衛隊は初めてのPKO任務を受けてカンボジアに派遣される。

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筆者

星浩

星浩(ほし・ひろし) 政治ジャーナリスト

1955年福島県生まれ。79年、東京大学卒、朝日新聞入社。85年から政治部。首相官邸、外務省、自民党などを担当。ワシントン特派員、政治部デスク、オピニオン編集長などを経て特別編集委員。 2004-06年、東京大学大学院特任教授。16年に朝日新聞を退社、TBS系「NEWS23」キャスターを務める。主な著書に『自民党と戦後』『テレビ政治』『官房長官 側近の政治学』など。

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