これまでと同じ万博ではなく、これまで誰もおこなわなかった万博はできるか
2018年11月28日
2025年の万国博覧会の開催地が大阪に決まった。
「うれしいニュース」「1970年の夢よ、再び」といった前置きとともに、「経済効果は2兆円」「オリパラ後の日本の成長の起爆剤」など、景気のいい言葉が並ぶ様子を眺めていると、55年ぶりに大阪で開催される万博に期待したい気分になってくる。
その一方で、2020年に開催予定の東京オリンピック・パラリンピック(東京オリパラ)が招致計画のずさんさ、その後の運営の拙さなどによって、種々の問題に見舞われているのを見ていると、25年大阪万博も掲げられる美辞麗句とは裏腹に、実は様々な課題を抱え、開催までに幾多の困難に直面するのではないかと不安にもなる。
そこで、本稿では、大阪万博の実態を検証するとともに、問題点や展望、そして期待されるあり方がどのようなものかを考えてみたい。
一見すると、夢と希望に溢(あふ)れるテーマである。ただ、あらためて読み返してみると、「いのち輝く」とはどんな状況を意味するか、「未来社会のデザイン」とは何か、具体的な像は結ばない。それゆえ、大阪で万博を開催する必然性、必要性が果たしてあるかも、さっぱり分からない。
安倍晋三政権が並べてきた「地方創生」「女性活躍」「一億総活躍」「人生100年時代」といった「言葉」とどこか似ていて、耳当たりのよい言葉を並べただけに見えてくる。
また、「未来社会の実験場」というコンセプトの下に例示されているのは、「展示をみるだけでなく、世界80億人がアイデアを交換し、未来社会を『共創』(co-create)」「開催前から、世界中の課題やソリューションを共有できるオンラインプラットフォームを立ち上げ」「人類共通の課題解決に向け、先端技術など世界の英知を集め、新たなアイデアを創造・発信」の3項目だ。
テーマと比べれば、具体的な提案が盛られてはいるものの、2025年に大阪で万博を開催する必然性は伝わってこない。
次により現実的な内容が記されているであろう「2025年大阪・関西万博がめざすもの」を確認してみた。以下の2点が挙げられている。
(1) 国連が掲げる持続可能な開発目標(SDGs)が達成される社会
(2) 日本の国家戦略Society5.0の実現
持続可能で均整の取れた世界の発展を考えるうえで、SDGsは重要で意義のある取り組みといえる。片や、「狩猟社会、農耕社会、工業社会、情報社会に続く、5番目の新しい社会(超スマート社会)」と定義されるSociety5.0は、名称は大仰だが、要はICTを最大限に活用し、サイバー空間とフィジカル空間(現実世界)とを融合させた取組により、人々に豊かさをもたらす社会を実現させるという、ごく当たり前の試みに、新規な言葉を与えただけである。
どちらも、一定の意義はある。だが、大阪ではなく他の都市が主張しても不思議ではない。大阪で万博を開く必然性をアピールするものでは、決してない。
「必然性なんて必要ない。招致に成功することが重要なのだ」という意見もあるだろう。実際、招致委員会はそれで招致活動に成功したわけだ。
今回の招致レースをみると、対抗馬はロシアのエカテリンブルクとアゼルバイジャンのバクーであり、両国とも経済の安定性は必ずしも十分でないうえ、強権主義的な政治体制をとっている。招致委員会のみならず、国際博覧会条約の加盟国にとっても、開催の必然性より、十分な経済力や安定した政治体制が重視されたであろうことは容易に想像がつく。
さらに、投票に先立つ最終説明会で世耕弘成・経済産業大臣が約240億円の発展途上国支援策を表明したことで、大阪は支援策の恩恵を受ける可能性のある条約加盟国はもちろん、その他の加盟国にも頼もしい候補地と見えたであろう。
「必然性は必要ない」という指摘にも一定の合理性があるように思われる。
だがしかし、である。
われわれは「この時期の天候は晴れる日が多く、かつ温暖であるため、アスリートが最高の状態でパフォーマンスを発揮できる理想的な気候である。また夏季休暇に該当するため、公共交通機関や道路が混雑せず、ボランティアや子供たちなど多くの人々が参加しやすい」と、およそ真実とかけ離れた内容を記載した「立候補ファイル」によって、2020年のオリパラの開催権を手にした東京のその後を知っている。
招致委員会のずさんな計画や大言壮語的な「立候補ファイル」の文言によって、東京オリパラの組織委員会が開催経費の高騰や暑さ対策に直面したことを考えるなら、必然性が欠如する中で招致に成功した大阪も、東京と同様、予期せぬ問題への対応を余儀なくされるのではないかと、どうしても懸念してしまう。
また、世耕経産相が表明した「240億円の発展途上国支援策」には国費が使われ、会場の設備費や万博の開催経費には、国費にくわえて大阪府や大阪市など地方自治体の公費も投入される。とすれば、大阪で万博を開催する必然性が明快に示されることが、やはり必要ではないか。「SDGsが達成される社会」や「Society5.0の実現」などといった抽象的な理由しか提示できないなら、果たして納税者を納得させられるか、疑問を禁じ得ない。
とすれば、なぜ、関係者はそこまで万博をやりたいのだろうか。ヒントになるのは、招致委員会が掲げる「2025年大阪・関西万博が実現したら…」という五つの項目だ。内容は以下の通り。
(1) 最先端技術など世界の英知が結集し新たなアイデアを創造発信
(2) 国内外から投資拡大
(3) 交流活性化によるイノベーション創出
(4) 地域経済の活性化や中小企業の活性化
(5) 豊かな日本文化の発信のチャンス
注目すべきは2点目の「国内外からの投資拡大」と4点目の「地域経済の活性化や中小企業の活性化」だ。万博を経済の活性化の手段として用いようとしている様子が鮮明だ。
戦後、進歩と発展、膨張と拡大が前提とされてきた日本の社会が停滞し、一部ではすでに衰退の兆候を示している分野もあることは、われわれも日々、肌身で感ずるところだ。それは、55年前の1970年万博の頃とはまったく違う。
1964年の東京五輪が、日本が戦後の復興を完全に成し遂げたことを世界に向けて印象付けたように、1970年の大阪万博は、1968年に西ドイツを抜いて世界第2位の経済大国になった日本の経済力と活力を国内外に示す場でもあった。招致委員会も「『万博』は世界中からたくさんの人が集まるイベントで、1970年に日本で最初に開催された大阪万博(EXPO’ 70)は日本の高度経済成長をシンボライズする一大イベントとなりました」と説明している。
この説明の背後に響くのは、万博によって日本経済の再活性化を目指すという発想に他ならない。だからこそ、「万博が実現したら…」の項目に「投資拡大」や「中小企業の活性化」などが例示されているのだ。
そう考えると、経済成長の実現のために万博を利用しようとするのは、筋違いな発想にも見える。どこか、老いゆく「かつての世界第2位の経済大国」が、過去の栄光にすがりながら、閉塞感を打破しようとするかのごとくである。
オリパラを控える東京で、都がすでに2020年度以降は地域の商店街の催事などに支出してきた補助金の支給の打ち切りを決定したことに象徴されるように、「オリパラ後」には財政が緊縮化することが予想される。大阪万博と東京オリパラとの関係は密接であり、経済面で大阪万博は東京オリパラを補完する役割を担うとされるが、思惑通りにいくか心もとない。
さらに、大阪万博の会場予定地である大阪湾の人工島・夢洲には、カジノを含めた統合型リゾート(IR)の開発も計画されている。だが、カジノの設置には施設の整備などに多額の費用がかかる。
大阪を会場とする必然性の乏しい万博の開催を、大阪府や大阪市が夢洲開発の予算を国から引き出すための手段と考えているのは明らかだ。極言すれば、万博はIRのための地ならしなのだ。とはいえ、カジノを含むIRで長期的な経済成長を見込めるのかもまた、定かではない。
では、25年万博に向けて、日本はどのように準備を進めればいいのか。
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