平成政治の興亡 私が見た権力者たち(5)
2018年12月08日
1993(平成5)年6月18日は、日本政治史に残る1日となった。
午後6時半、社会党など野党が提出した宮沢喜一内閣不信任決議案が上程され、採決が始まった。自民党からは小沢一郎、羽田孜両氏が率いる羽田派などが造反し、不信任案に賛成する。賛成が上回って可決されれば、憲法の規定で内閣は総辞職か衆院解散・総選挙かの決断を迫られる。
このころ、私は朝日新聞政治部の自民党担当だった。この日は、国会議事堂と道を隔てた国会記者会館の朝日新聞の部屋で一日中、新聞の記事を書いていた。与野党、国会、首相官邸の担当者から寄せられる情報をもとに、ワープロを打ち続けた。夕刊では「不信任案可決の公算」を書き、朝刊では「不信任案可決 衆院解散へ」という長文の記事を書いた。
内閣不信任案の採決は記名投票。衆院議員一人一人が、自分の名前が書いてある札を投じる。賛成なら白票、反対なら青票。羽田派の35人は、全員が白票を投じた。羽田派以外でも石破茂氏らが白票だった。そのたびに、野党席からは「おー」という歓声が上がる。
午後8時16分。桜内義雄議長が投票の結果を発表した。「可とする者、白票255票、否とする者、青票220票。よって内閣不信任決議案は可決いたしました」。野党席からは「万歳」の声も上がる。自民党席の議員たちは青ざめていた。
自民党が分裂し、内閣不信任案が可決されるという異例の事態だ。宮沢首相は直ちに衆院の解散・総選挙を決断。臨時閣議で解散が決まり、再開された衆院本会議で桜内議長が天皇陛下の解散詔書を読み上げた。自民党分裂から内閣不信任案可決、衆院解散というドラマが目の前で繰り広げられた。私は、まさに「政治史を記録する」覚悟で、ワープロに向かっていた。
小沢氏らの造反に加えて、政界に衝撃を与えたのが、自民党の武村正義氏ら若手の離党だった。武村氏や鳩山由紀夫、田中秀征、園田博之、三原朝彦各氏ら計9人は、党の方針に従って内閣不信任案には反対した。だが、不信任案が可決された直後に、不信任案に賛成した梁瀬進氏を加えた10人で離党を表明。6月21日には、武村氏を代表とする「新党さきがけ」を結成した。
数カ月前、私は自民党竹下派の若手議員だった鳩山、三原両氏らと居酒屋で一杯やりながら話をする機会があった。「一致結束、箱弁当」が合言葉で鉄の結束を誇っていた竹下派だったが、二人は「派閥の古い体質は嫌になる」「このままでは自民党の未来はない」とぼやいていた。二人が「新党さきがけ」に加わり、さらに鳩山氏が16年後に首相にまで上りつめるとは、想像もできなかった。
総選挙は7月4日公示、18日投票と決まった。結果として、これが中選挙区制のもとでの最後の総選挙となった。
定数511を争った選挙の結果は次の通りだ。
自民党 223
社会党 70
新生党 55
公明党 51
日本新党 35
民社党 15
共産党 15
さきがけ 13
社民連 4
無所属 30
自民党は過半数の256を大きく割り込んだが、改選前議席の222はかろうじて1議席上回った。18日、開票速報が次々と流れている時、宮沢首相は改選議席を上回ったことで自信を取り戻していた。
秘書に電話したら「総理は辞める気などさらさらありません」 という。だが、梶山静六幹事長は、首相と幹事長が党分裂の責任をとって辞任し、自民党が新総裁・幹事長を選べば、日本新党などとの連立政権は可能と見ていた。
宮沢首相は、党内情勢から退陣やむなしと判断。22日に退陣を表明した。後継総裁に後藤田正晴副総理兼法相を担ぐ動きが表面化する。さきがけの武村代表は、自治省の先輩である後藤田氏に近く、自民党としては、さきがけを抱き込むには「後藤田首相」が好都合という判断だった。
しかし、後藤田氏は高齢を理由に総裁選出馬を拒否する。後継総裁は河野洋平官房長官と渡辺美智雄前外相の間で争われ、河野氏が勝利する。自民党は、小沢氏の多数派工作の前に打つ手がなかった。
93年8月6日、特別国会の衆院本会議が開かれた。議長には憲政史上初めて、女性の土井たか子元社会党委員長が選出され、首相指名が行われた。結果は、細川護熙氏が262票で河野洋平氏が224票。細川氏が第79代の首相に選出された。
細川氏は朝日新聞記者、熊本県知事、自民党参院議員などを経て、日本新党代表。私は、朝日新聞の大先輩ということもあって、話を聞く機会が多かったが、戦国武将・細川家の末裔で近衛文麿元首相の孫という経歴もあり、いつも「歴史の流れ」を考えている様子だった。
自民党は1955年の結党以来、初めて野党に転落。自民、社会両党による55年体制は幕を閉じた。
細川政権の誕生に先立ち、宮沢内閣は8月5日に総辞職したが、その前日の4日、河野洋平官房長官が戦時中の従軍慰安婦についての報告書をまとめ、談話を発表した。92年1月の宮沢首相と韓国の盧泰愚大統領との会談で、調査の要請があったことを受けたものだ。
談話は、慰安婦募集について「本人たちの意思に反して集められた事例が数多くある」などと指摘。河野氏は公式に謝罪した。この談話に基づいて、後に「アジア女性基金」が設立され、韓国の元「慰安婦」の方々に償い金などが支払われる。だが、韓国国内では日本への批判はやまず、この問題は日韓間の火だねとしてくすぶり続ける。
野党転落で途方に暮れていた自民党を尻目に、細川政権のスタートは順調だった。内閣支持率は7割を超える調査が多かった。細川氏も支持率を気にしていたようで、当時の日記に、こう記している。
「細川内閣発足1カ月支持率世論調査結果をマスコミが発表。NHK70% 朝日71% 毎日65% 東京79%」(注1 細川2010 P67)
細川首相は自らの政権を「政治改革政権」と位置づけ、政治改革関連法案の成立を最優先していた。9月17日には臨時国会が召集され、政府は衆院に小選挙区比例代表並立制(選挙区250、比例代表250=全国単位)を導入する法案を国会に提出。野党自民党は、対案として並立制(小選挙区300、比例代表171=都道府県単位)を提出した。
私は細川政権発足で、自民党担当から国会担当に配置換えとなり、政治改革関連法案の審議などを取材。その後、連立与党担当チームのキャップとして10人ほどの仲間を束ねることになった。政権を支える連立与党は、社会、新生、公明各党など7党1会派の寄り合い所帯。与党内のゴタゴタが毎日のように表面化し、取材は深夜まで続いた。
連立政権を牛耳っていたのは、新生党の小沢一郎代表幹事と公明党の市川雄一書記長、いわゆる「一・一ライン」だった。市川氏は安全保障などの論客で知られ、相手を論破する迫力は相当なものだった。私も、会食した際に安全保障問題で議論をふっかけられ、翌日の午前3時まで論争した記憶がある。
連立与党の社会党は、総選挙で議席を134から70に減らした責任をとって山花貞夫委員長が辞任。9月の党大会で後継に村山富市氏(後の首相)を選出した。村山氏は表向き、小沢氏への協力を表明し、政治改革関連法案にも賛成していたが、本音は違った。私は、村山氏が「小沢君は強権体質じゃ」「小選挙区制が政治改革とは限らん」と大分弁で語るのを聞いていた。社会党内にも村山氏の本音は伝わっていた。
臨時国会は年を越えて会期が延長された。政治改革関連法案の参院での採決が迫る中、細川首相と小沢氏との戦略の違いが浮き彫りになっていた。細川氏は自民党と妥協をしてでも法案を成立させ、政権の成果としたかった。小沢氏は自民党執行部との妥協を拒否して採決に持ち込めば、自民党が政治改革をめぐって再び割れると読んでいた。
細川氏は自民党の竹下登元首相、宮沢喜一前首相と極秘に会談し、自民党との歩み寄りを模索する。これに小沢氏は強く反発した。94年1月21日、政治改革関連法案は参院本会議で採決を迎えた。社会党から多くの造反が出ると予想されていたが、実際、社会党の17人が反対し、法案は賛成118票、反対130票で否決。細川政権は重大な危機を迎えた。
衆院可決、参院否決。この事態を受けて、国会では両院協議会が開かれた。ここで「物別れ」となれば、法案の否決が決まる。当然、細川首相の責任が問われる。その一方で、自民党の河野総裁にとっては、政権を追い込んだものの、自民党内の対立・分裂を引き起こす恐れも出てきた。
細川、河野両氏の判断でトップ会談が実現。29日未明の話し合いで、「小選挙区300、全国11ブロックの比例代表200」の小選挙区比例代表並立制で決着する。合意を受けた修正案が衆参両院で可決、成立した。長く続いてきた中選挙区制を小選挙区制中心の制度に改める、日本政治の大転換であった。
小選挙区制は政権交代が起きやすく、二大政党が政策を競い合うようなる――。それが、小選挙区比例代表並立制の触れ込みだったが、2009年にこの制度で本格的な政権交代が起こるまでには、15年もの歳月を要することになる。だが、それは先の話。
政権は、その目標を失った時、とたんに求心力を失うものだ。細川政権も政治改革という最大の目標を失って、漂流を始める。
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