高橋 浩祐(たかはし・こうすけ) 国際ジャーナリスト
英国の軍事専門誌「ジェーンズ・ディフェンス・ウィークリー」東京特派員。1993年3月慶応大学経済学部卒、2003年12月米国コロンビア大学大学院でジャーナリズム、国際関係公共政策の修士号取得。ハフィントンポスト日本版編集長や日経CNBCコメンテーターを歴任。朝日新聞社、ブルームバーグ・ニューズ、 ウォール・ストリート・ジャーナル日本版、ロイター通信で記者や編集者を務める。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
米ソの極秘作戦プロジェクト・フラはなぜ、長い間知られなかったのか?
この史実を知った時に、筆者も大変驚いた。なぜなら、1956年8月に日本の重光葵外相がロンドンでアメリカのダレス国務長官と会談した際、ダレス国務長官は「日本が歯舞、色丹の2島返還のみでソ連と平和条約を結べば、沖縄をアメリカ領にする」と恫喝(どうかつ)していた経緯があるからだ。
アメリカは戦中はソ連の北方4島占領を軍事支援していたのに、戦後は「2島返還でソ連と手を打つな。4島返還を目指せ」と日本を脅していたわけだ。見事なまでの二枚舌外交である。つまり、北方領土問題は、その時々に合わせて自国の利益を追求したアメリカの動向が大きく影響したのである。
ヤルタ密約では、ソ連の対日参戦の見返りに千島列島の領有を認める立場。そして、冷戦の最中は、アメリカは日本に「4島返還」を主張させる方が日ソ間を分断できると考えていた。北方領土問題を日ソ間のくさびとして残した方がアメリカの国益になるとの考えがあった。
悔やまれるのが、大戦末期に敗戦色が濃厚になるなか、日本が中立条約を結んだソ連に、最後の最後まで英米との和平の仲介を依頼し続けたことだ。前述のごとく、スターリンが1943年10月の早い段階で、対日参戦の意思を明確にしていたにもかかわらず、だ。
日本はソ連の対日参戦の動きを察知できなかったのか?
岡部伸氏の著書『消えたヤルタ密約緊急電―情報士官・小野寺信の孤独な戦い』によれば、日本帝国陸軍のストックホルム駐在武官だった小野寺信少将はヤルタ会談直後の1945年2月半ばに米ソの「ヤルタ密約」を入手、ソ連の対日参戦の極秘情報を東京の大本営参謀本部に公電で報告していた。しかし、この日本の国家の命運を左右する第1級の情報は、ソ連に和平仲介を期待する勢力によって「不都合な真実」として握りつぶされたとされる。岡部氏は、このヤルタ電抹殺に、大本営作戦課の参謀だった瀬島龍三氏が深く関わっていた可能性を指摘している。
岡部氏は著書で「ソ連への傾斜を打切り、もっと早い段階で米英との和平に応じる決断に至ることも十分可能だった。刃を向けて来るソ連を頼った終戦までの半年間を、日本は無為に過ごしたとも言えるだろう」と指摘する。
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