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辺野古へ土砂投入の日、本当に報じるべきだった事

「後戻り困難に」と伝えた私たちメディア。国のPR作戦に乗せられたのではないか

島袋夏子 琉球朝日放送記者

辺野古埋め立て区域の空撮と図面(琉球朝日放送提供)

また沖縄は取り残された

 もうすぐ平成が終わる。東京ではオリンピック、大阪では万博と、新しい時代の到来に沸いている。だが沖縄はまた、取り残されることになった。

 12月14日、政府は、名護市辺野古の新基地建設に向け、工事を強行した。

 その様子を私は、地上300メートルのヘリから見つめていた。辺野古崎の南側では、トラックが護岸にやって来ては、土砂を下ろし、それを重機で、海に押し込む作業が何度も繰り返された。

 土砂で汚される海の底には、貴重なサンゴ礁群が広がる。少し前までは、プカプカ水面まで上がってくるウミガメや、悠々と泳ぐ天然記念物のジュゴンも目撃されていた。

 しかしその海は、埋め立てられようとしていた。

 着工を発表した菅官房長官は「知事も(普天間基地の)固定化は絶対に避けなければならないと思っている」と述べ、「沖縄県の目に見える形の負担軽減を実現するという政府の取り組みを説明させていただいて、地元のご理解を得られるよう、粘り強く取り組んでいきたい」と語った。

 だが本当に、工事の強行が、沖縄の負担軽減になるのだろうか。

 テレビで繰り返し放送されたり、新聞記事に書かれたりする閣僚たちの発言は、沖縄のための「善意」の言葉にも聞こえる。それをすっかり信じ込んでいる人たちもいる。

 しかし、沖縄県民は何度も「辺野古新基地建設はノー」だという民意を示してきた。「負担軽減」を繰り返す閣僚たちの言葉は、本土から見えない海を隔てた沖縄で、国がしていることが知られないように、島から上がっている小さな声が、沖縄以外の国民に聞こえないようにするための隠れみのであり、善人を装うポーズにさえ思える。

移設ではなく、巨大基地建設に

辺野古の海に土砂を入れる重機=2018年12月14日(琉球朝日放送提供)
 普天間基地の返還が発表されたのは22年前、橋本首相とモンデール駐日米国大使の共同記者会見だった。

 当時大学4年生だった私に、アルバイト先の朝日新聞那覇支局から「明日本土からたくさん記者が来るから、雑用をお願い」と電話がかかってきた。

 翌日、沖縄タイムスビルにある那覇支局に行くと、狭い支局は、全国からたくさんの応援記者が駆けつけてきて、ひしめき合っていた。大学生アルバイトの目から見ても、沖縄が歴史的節目を迎えているのだと、興奮が伝わってきた。

 あれから22年も経って、地元テレビ局の記者になった自分が、こんな皮肉な形で取材するとは思ってもみなかった。

 普天間返還は「沖縄問題の象徴」とされていた。その実現が、地上戦で多大な犠牲を払い、戦後も米軍占領下で惨めな生活を強いられた沖縄の「戦後」を前進させるものだとみられていた。

 ところが華々しい発表にはウラがあった。普天間を返すには代替施設が必要だったのだ。しかも代替施設予定地としては、ほとんど本土で候補地が検討されず、沖縄県内で迷走することになった。

 結局、普天間基地からわずか40キロの名護市辺野古に落ち着き、計画は沖に浮かぶ小さな海上ヘリポートから、形を変え、次第に規模や機能を増強させていった。気が付くと、滑走路は1本増え、1800メートルのV字型に。図面には密かに、軍港機能を備えることが記され、弾薬搭載エリアも併設する、巨大基地計画にすり替わっていた。

分断の22年

 国が埋め立てに着手すると発表した14日を前に、メディアは海で取材するため、船の手配に追われた。だが、なかなか協力してくれる船は見つからず、結局、私たち琉球朝日放送も含め、5社が同じ船に乗り合わせることになった。

 辺野古の地元である名護漁協は、2014年と2017年に、総額42億円という巨額な漁業補償金を手にし、埋め立て予定地と、それを取り囲む臨時制限水域の漁業権を放棄している。国としてみれば、計画に反対する沖縄県を封じ込めるには、「地元中の地元の合意」が必要で、漁師たちから漁業権を取り上げることが必要だったのだ。

 しかも漁業を諦めた漁師たちの多くは、国の側につくことになった。基地反対の人たちが乗り込んでいる抗議船に睨みを利かせる警戒船として、国に雇われたのだ。

 元々は、埋め立てに反対する漁師たちも多かった。しかし長い年月は人々を疲れさせ、一人、また一人と屈していった。

 近隣の漁師も同じだった。反対運動や、メディア取材に協力すると、仲間内でやり辛くなる。だから、本音では反対している漁師たちも、村八分を恐れて多くを語らなくなり、取材船を出してくれる人もほとんどいなくなった。

 そんな中、今回も電話を取ってくれたのが、辺野古の隣にある宜野座村の漁師、佐次田崇さんだった。

佐次田崇さん=2018年12月14日(琉球朝日放送提供)

 佐次田さんの船「桐丸」の側面には、長い抵抗の歴史の痕がある。2004年、沖縄防衛局が辺野古の海で、基地建設に向けた調査を始めようとしたとき、反対する人たちが体を張って、海上に建てられたやぐらで座り込みを始めた。佐次田さんは、仲間の漁師たちと共に現場に駆けつけ、座り込む人たちの盾となり、取り締まる船から人々を守った。

 それでも国は、時間とカネをかけて、じわじわ計画を進めてきた。2013年、遂に、当時の仲井真弘多元沖縄県知事が、辺野古の埋め立て承認を許可したとき、佐次田さんは、船を売って、漁師を辞めようかとも語っていた。海も、漁師のプライドも、大切にしてきた人間関係もズタズタにされ、身も心もボロボロになっていたのだ。

 だが佐次田さんは、今回も船を出してくれた。目の前で海に土砂が投入される様子を見るのは、さぞ辛かっただろう。船上ではインタビューに「残念だ、それしかない」と言葉少なげだった。

 ところが夜になって、佐次田さんから電話がかかってきた。「自分にもまだ役割があると思った」というのだ。佐次田さんはこういった。「まだ終わっていない、知事も県民も諦めなければ絶対に反対できるはずだ」

「桐丸」に残る傷痕=2014年(琉球朝日放送提供)

国が企画した一大セレモニー

 土砂投入の翌日、新聞に「後戻り困難に」という見出しが躍っているのを見て、私は違和感を覚えた。そして、はっと気付かされた。

 確かに土砂投入は、サンゴ礁や生き物たちに多大な影響を及ぼす。しかし、私がヘリから見た埋め立ての現場は、まだそれほど広くはなかった。ほんの一部に過ぎなかったのだ。

 それなのに私も、他のメディアも、あの日、辺野古の海に土砂が押し込まれる映像を、何度も繰り返し報じることで、もう辺野古は後戻りできない局面を迎えているという誤ったメッセージを視聴者に送り続けてしまったのではないだろうか。県民や国民の諦め感を増幅させたのではないだろうか。

 ニュースで現場を詳しく、正確に伝えようとする余り、結果として、国の作業行程の報告になってしまうことがある。反対して座り込む人たちの声を取り上げようとして、サングラスやマスク姿の人たちが、排除される激しい場面をそのまま切り取り、それが「プロ市民」だとか「活動家」といった批判的な声を助長している側面もある。

 本当に伝えるべきことは、「辺野古崎の南側で、トラックが護岸にやって来ては、土砂を下ろし、それを重機で、海に押し込む作業が何度も繰り返された」ということではないだろう。

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